2018年
年明け某日
世界を知りたいと思っていた。ダヴィンチになりたいって。
ライター/編集者・月岡 誠(アピックス)
(前半からの続きです)
−−−−「国語便覧」に載るような作家の本は教養としては読んでたんですか?
中島敦とか。漢文のがかっこいいなと思った。漱石、芥川は、読んでいないわけじゃないよ。『こころ』と……他にはそんなにないじゃん。あとは思想系のやつで『私の個人主義』とか。頑張って読んだなぁという記憶はある。
−−−−いまの時代って、これを読んでおけば「押さえている」っていう純文学の作家がいない気がするんですよね。村上春樹さんは、純文学の中心の存在ではないし。
いないかもしれないね。純文学は、わけわからないものがある、ということを知るということだと思う。評論とか思想はわからなければ意味はないし、わかんないのもあるけど(笑)、論理的に分からせるのが前提でしょう。でも純文学は、わからないけどなんか気になる。
最初に就職した会社でね、同期で一緒に飯食う時に、話しながら飯食おうよって言ったら、食事中に話なんかしないって言われて。ああ余裕ねぇなって思って。大卒なんておれしかいないような環境で、幅がねぇなって思った。もっと昔の人は、酒飲んだり女買ったりして、遊んでたんだよね。大卒の人だろうが、中卒で働いている人だろうが、みんな遊びから得ていたものが多い。でもそういうのだんだんなくなってきて、読んでも読まなくてもいいものを読んでおくってことがもっと大事になった。
−−−−そのことって、いまどんどんそうなってるでしょう。読んでも読まなくてもいいものは読まれない。
そうだね。接することができるその世代は娘くらいだから分からないけど、まぁ、コスパって言われちゃうとね(笑)。なんだっけ、旧友と称する知らない奴が突然来て「威張るな」って言って帰っていったという。太宰の短編集に書いてあったのを、源ちゃんが書いたのかな。なんか謙虚であるって大切な事で、役に立つとか立たないとか、勝手に決めんな、作家はエラそうにしちゃいけないという風にとった。
−−−−知らなくていいことかどうか自分で判断しちゃって、目的に回り道せずに向かうのが良いっていう流れ、怖いと思うんですよね。
あとは、勉強ができたからね、威張りたい。小説もその範疇にあった気はする。世界を知りたいと思っていたと思うんだ。ダヴィンチになるんだって。自然科学も人文科学も社会科学も全部押さえるんだっていう意欲はあったと思う。そういうことができた最後の世代だったと思う。全部をそれなりに知るなんて、もう無理な時代になってるでしょう。大ジェスト本流行るの、好きじゃないけど何となくわかる。
あと、本読めば褒められたっていうのが単純にあった。小さいころすごく世話になったおじさんっていうのが、太宰に手紙書いた人なんだよね。「おお読んでんのか」なんて言われると、やっぱり嬉しかった。
−−−−購買の話に戻りますけど、月岡さんの本の山って、それなりに整理されているんですよね。この仕事してるからだなっていうのと、好きそうだなっていうのと、一般的なところで時代を捉えているのと。3つあるんですよ。それって意識しないでどんどん積んでるのかなって。
一般的なところって何。
−−−−猫の本とか。
猫はね、個人的な事情。カミさんが猫にハマってるから、話合わせようかなとか。確かに、どんな人とでも話を合わせられるようではありたいなと思うよ。おれがね、絶対に買わないのはゴルフだけなの。
−−−−え、この世のすべての中で?
そう。ゴルフだけは、実用書も、思想に関するものでも、一切興味がない。でもそれ以外はみんな何かしら面白いかなとは思ってるんだよね。
−−−−なるほど……好きな本とか好きな映画とか、そういうものを積み重ねていく中で自分というものができて、それがすごく強い芯のようなものになる、という流れをいまの若い人が持てていない気がしてるんですよ。
僕らの時代は、保守がいて左がいて、という世の中の仕組みがはっきりしていた。その中で自分はこのあたりの中のこのへん、というのを考えやすかった。自分の位置付けを。だって今はどの政党がこう言う位置っていうの、分からないじゃん。文学だって、昔はゴリゴリの純文学があって、SFがアンチで、というのは見えやすかった。そこに自分の生き方を乗せていくこともできた。でも今そういうの見えにくいというか、崩れてしまっているでしょう。