案内文01
「正義の味方より匹夫の味方」編集者/ライター・月岡 誠
『江分利満氏の優雅な生活』山口 瞳
生来の半端者で、還暦間近というのにビシッとした信念を持てません。イズムに染まる覚悟も足らず、宗教は勘弁だし。ひとつの方向に寄りそうになっても、反対意見を聞くと「なるほど」と引き戻されちゃう。結局、中をとって平凡、動けずみたいな。
この山口瞳さんの本は、想えばこんな人生へ導かれる第一撃だったかと思います。復興~高度成長期のサラリーマン家庭の悲喜こもごもを、エッセイ的文体で書いている小説です。江分利満=Every Manですし、山口さんも「『一将功成って万骨枯る』の『万骨』の心情を書きたかった」と記していますので、高度成長期ではありますが、“その他大勢”の生活と気持ちが綴られています。誇張や虚構はあっても、サントリー宣伝部にいた30代の山口さんの心持ちです。
読んだのはたぶん小学校高学年の頃、布団の中。なんで小学生がサラリーマン小説か……覚えてません。続編の「華麗な生活」とセットで買ったので、漢字の多い面白げなタイトルの小説を背伸びして、くらいのものだったでしょう。ところがぎっちょん……
「もし江分利が、発作の夏子と喘息の庄助を抱えて、もしも、この世をなんとか過したとすれば、こりゃ大変なことじゃないか。壮挙じゃないか。才能のある人間が生きるのはなんでもないことなんだよ。宮本武蔵なんて、ちっとも偉くないよ、アイツは強かったんだから。ほんとに『えらい』のは一生懸命生きている奴だよ、江分利みたいなヤツだよ。匹夫・匹婦・豚児だよ。」
ここを読んで、体が熱くなったのを覚えてます。修行と試練の末に剣聖となった宮本武蔵(『バガボンド』ね)は、当時の私というか、多くの日本人の理想の人間像。本など読まなかったワタシのおかあちゃんですら、吉川英治『宮本武蔵』(国民文学!)は好きで、武蔵を称賛してました。この英雄を「ちっとも偉くないよ、アイツは強かったんだから」と言い切る荒業と気合い。強者・成功者(しかも、努力してるし悟ってもいる人)より、もがく凡人――小学生が感心しちゃうのは如何なものかの価値観ですが、いまだ心の一角に根を張っています。
また、江分利さんが母親の葬儀数日後の夜、下宿人である外国人記者に、思わず「Well, I’m still in my early thirties…」(俺はまだ30代を過ぎたばかりだ…)と言いかけるところも印象深かったくだり。妻子は病気がち、父の残した莫大な借金もある、親孝行もできなかった、それでもまだ、という思い。すると、その記者が力強く「Yes」と遮って涙を浮かべる。江分利の「俺はまだ何かができるはず」の切なる思いを、別に親しくもない外国人がくみとって励ます――ゆきずりの厚情みたいのが、妙に記憶に残っています。
このほかにも、「徒党は組まない」「ウィスキーは薄めない(ハイボールは可)」「美しい言葉で若者を誘惑することで金を儲けた奴……heartのない奴。heartということがわからない奴。これは許さないよ」などなどは、別に守れているわけでも、守っているわけでもないですが、なんとなく重石になっている。作家として成功者になってしまい、「決め手を失った」と書く潔さを含め、山口さんを尊敬している自分がいます。
あらすじ/『江分利満氏の優雅な生活』山口 瞳
ごくふつうの平均的な日本人として登場するこの本の主人公は、妻子とともに社宅に住む戦中世代のサラリーマン「江分利満氏」。不器用で小心者で生真面目な彼の、日々の仕事や暮らしの情景を描いた作品。1973年に直木賞を受賞した。
案内者プロフィール
月岡誠。1961年東京生まれ。双子。仙台6年、埼玉22年。妻子アリ。専ら社史のライティング、たまに編集、ごくたまに企画。「愛は破れるが親切は勝つ」けど愛も欲しいやね。パス重視だけど、ちょっとは「拍手が欲しい」。「人は死ねばゴミになる」けど、なかなかそうは悟れん。嗚呼、凡庸也。
書籍情報
『江分利満氏の優雅な生活』(1963年文藝春秋新社から発刊)。
新潮社での文庫化を経て、現在はちくま文庫が発売中。