案内文02
「悠久の都に思いを馳せる」出版企画編集者・岡田 卓
『項羽と劉邦』司馬遼太郎
学生時代、「歴史」の勉強がどうにも好きになれなかった。いま思えば、“数字と固有名詞の暗記”に終始せざるを得なかったことが主因であろう。そこでは、歴史を動かした「人」の心の襞(ひだ)を読み取ることは求められなかった。司馬遼太郎の著書の多くは、歴史の醍醐味がそこにあることを教えてくれる。
『項羽と劉邦』は、中国史上最も壮大でドラマチックな戦いと言われる項羽と劉邦の覇権争い(楚漢戦争)を描いた歴史小説である。舞台となる紀元前200年前後は、日本の弥生時代にあたる。いまから2200年以上前というはるか古(いにしえ)の記録が詳細に残っている、このことだけでも悠久の国・中国の奥深さに驚嘆させられる。
文庫本で上・中・下巻の3冊、トータル1,500頁にも迫ろうかというこの大作を前にして、“歴史嫌い”の私はさすがに尻込みした。ところが、意を決して読み始めてみると、すぐに不安は一掃される。次から次へと現れる魅力的かつ一癖も二癖もある多彩な登場人物、その一人ひとりにスポットを当てつつ、それぞれが巻き起こす“ドラマ”が心理面も含めて丁寧に描かれる。知らぬ間に、きわめて上質な群像劇の世界へと導かれる。しかも、歴史を伝える中立者の立場を逸脱することなく、敵味方の差別なく公平に、時代の流れのなかで小気味よく物語が展開されるのである。
この歴史小説を予想以上に身近なものに感じられた理由として、かつて私が中国・西安に留学した経験を持つことも大きかった。冒頭に秦の始皇帝が死に至る場面が描かれるが、彼が眠る秦始皇帝陵や、秦朝の都である咸陽にも、何度か足を運んでいた。当時は十分に理解もせず目にしたものが、物語を読み進めるなかで蘇り、イメージを膨らませる効果がもたらされた。さらに、数カ月滞在した西安は、秦朝滅亡後、楚の猛将・項羽を破って漢朝を建てた劉邦が造営した城都・長安にほかならない。あの気温差が激しく、砂埃に悩まされる乾燥した気候が思い出される。
『項羽と劉邦』をもって、よく理想的なリーダー像が論じられる。それまで連戦連敗だった劉邦が最後に天下を獲った最大の要因が、彼の「可愛げ」「愛嬌」にあったという評価を、私はにわかに信じられなかった。たとえ自身が“無能”であっても、有能な部下を全面的に信頼してその才を遺憾なく発揮させた劉邦は、後に「皇帝(英雄)とはかくあるべき」と奉られる。読者としての私は、最後まで劉邦に肩入れできなかった。それは、劉邦が備えた「徳」を持ち得ないことへの妬み嫉みに違いない。
あらすじ/『項羽と劉邦』司馬遼太郎
大陸統一を果たした秦の始皇帝の圧政が民を苦しめ、国内に怨みや嘆きの声が満ちていた中国。始皇帝の死とともに民衆の不満が爆発し、各地で反乱が起きる。そこに現れたのが、不世出の武人と言われる勇猛な「項羽」と、その人柄に不思議な魅力を持ち人望の厚い「劉邦」だった。混乱の世を背景に、ふたりは天下の覇権を争う。
案内者プロフィール
岡田卓。1958年東京都生まれ。株式会社アピックス代表。企業・学校等の周年史・コンセプトブック等の企画・ライティング・編集に携わる一方、「中国(生活文化)」「人物」「ニッポン(伝統文化×ing)」などに関する出版企画に取り組む。近年は「行動なくして前進なし」をモットーに、“凄い!”と感じた魅力的な「人」を取材し、自社のWeb雑誌で情報発信する試みに力を入れつつある。
書籍情報
『項羽と劉邦』(『小説新潮』で1977年から連載)。
1980年、新潮社より発刊。新潮文庫から発売中。司馬遼太郎全集にも収録されている。