選定者私物の本

案内文01

「小さなこだわり」北村敬良・高校教諭

選定者

『海峡の光』辻 仁成

だれにでも忘れられない作品がいくつかある。しかし、その忘れられないという理由は、ストーリーの面だけとは限らない。この小説もそうだ。

映画の話から始めるが、中学生のころから映画が好きで(特に外国映画)、月に2本ぐらいのペースで映画館に通った。学校ではバレーボール部に所属して結構熱心にやっていたから、土日もほとんど練習や試合で、その合間に映画館に通ったものだ。劇場へは1人で行く。決して友達がいないわけではなく、「映画は1人でじっくり観るもんだ!」などと、ちょっと思春期にありがちな背伸びした考えを持っていた。

中学3年生のクラスでは、担任の先生の方針で、毎日順番にひとり1ページほどの文章を書いて回覧するということを班ごとにしていた。順番が回ってくると、私は映画評論家になったつもりで、いつも観た映画について書いていたっけ。

あるとき、『バニシング・ポイント』というアメリカ映画について書いたことがあった。

新車の陸送をしている男が、賭けをして決められた時間までに目的地までに車を猛スピードで走らせるというストーリー。当然のことながら警察に追われることとなり、カーチェイスが繰り広げられたり、いくつかの検問を突破したりしながら、主人公はノンストップで目的地に向けて爆走する。ラストで、警察は最後の手段として2台の大型ブルドーザー道に並べ、車を止めようとする。しかし、道を閉ざされた主人公は、最後までアクセルを緩めることはなく、ブルドーザーのショベルに向かって走って行く、という映画。

確か、2台並べられたブルドーザーの間にはわずかなすきまがあって、逆光でそこが光っているようなワンカットがあったと思う。映画評論家気取りの私は、そのシーンだけに触れ、「その光は希望とか自由のようなものを暗に表現していて、主人公はそこに向かって突っ込んでいったんだ!」なんてことを、そのノートに書いた記憶がある。


映画でも小説でも、ストーリーに感動することもあれば、作り手のちょっとした演出に勝手に何か意味を見いだしたり、メッセージをこじつけたりすることが少なくない。流行っている歌の歌詞の中の何気ない一言にもそうだし、関西人の気質から、芸人のうまい「ボケ」や「オチ」にもいたく感動する始末。職業柄、そんなふうに生徒たちにも「心に響く一言」が言えたらいいのだけれど、いつも企画倒れに終わってしまう。

さて、この度紹介する作品もストーリーのおもしろさが理由というわけではない。もちろん、本作は第116回下半期芥川受賞作であり、今は刑務官となって働いている「私」が、かつて「私」をいじめた花井という名の男が服役囚となって、「私」の前に現れるという、逆転の構造の中での2人の心の暗部が描き出される秀作だ。しかし、私がこの小説を忘れられないのは、初めて読んだときに、「なんて斬新なんだ!」と勝手に?衝撃を受けた比喩表現によってなのだ。

舞台となる函館少年刑務所の春ののどかさを、作者はこう表現する。「快晴、雲は無い。五月の風は心地よく、ここが刑務所であると知らなければ、まるで田舎の寄宿学校にいる長閑さである。鳥が空にピンで止められたかのように、花井の頭上近く静止して見えた。」

「鳥が空にピンで止められたかのように」・・・。私にはその空を、鳥を、はっきりイメージすることが出来た。この比喩に出会ったことが理由で、たったこれだけの理由で、私は、この小説がずっと忘れられない。この比喩に出会った感動は、人に言ったところでなかなか理解してもらえないかもしれない。しかし、そんな本との出会いがあってもいいのかなと思う。

この紹介文を書くに当たって何年かぶりに本作を読み返してみた。立場が逆転し、立場はもちろん心理的にも優位で自由なはずなのに、服役囚花井に心が振り回されて精神的に身動き出来ずにいる主人公の「私」が、実は、「ピンで止められた鳥」だったのかな、なんてことも考えてみた。

あらすじ/『海峡の光』辻 仁成

北海道・函館で刑務所の看守を務める主人公。ある日、少年時代に彼を陰湿にいじめていた同級生・花井が、傷害罪の受刑者として現れた。花井は模範囚として過ごしていたものの、仮釈放が決まると問題を起こして自ら取り消しにする。主人公は、同級生だったことを気づかれるのではないかと内心で怯えながら過ごす。そしてふたりは船舶訓練の監視者と被監視者として海に乗り出た。第116回下半期芥川賞受賞作品。

案内者プロフィール

北村敬良。昭和33年7月5日神戸市生まれ。東京での大学4年間以外はずっと神戸に住み、神戸の街をこよなく愛している。私立の女子高校で国語を教えながらマナーや礼儀の授業も担当。妻との2人暮らしだったが、2年前からトイプードルを飼いだした。犬の態度から推察すると、私の家での序列は3番目。趣味は、映画鑑賞、旅行。死ぬまでには実際のオーロラを見てみたいと考えている。

海峡の光

書籍情報

『海峡の光』(1997年新潮社より発刊)。
現在、新潮文庫より発売中。