案内文01
「断面を照らす」編集者・鈴木朝子
『人の砂漠』沢木耕太郎
その本を読んだ時、ほとんど焦がれるように、文章が書けるようになりたいと思った。本を読むことも文章を書くことも子どもの頃から好きだったから、すでに「書けない」わけではなかったし、漠然とそういう仕事に就くんだろうなとも思っていた。
そういう、書くの好き→それでお金もらえたらうれしい、という幼い発想ではないところで、文章が書けるこということはこういうことだ、と気づかせてくれた本が2冊ある。
そのひとつが吉本ばななさんの『キッチン』の最後に収録された「ムーンライト・シャドウ」で、優れた文章は、人を愛する気持ちも愛した人を失う悲しみも痛みもすべて表現できるのだと知った。そのことをただ「すごい!」と思い、ただ憧れた。
もう1冊が『人の砂漠』という本だった。本は8つのルポルタージュから成る。行政の援助を拒み、ミイラになった兄の隣で寝起きしていた女性を描いた「おばあさんが死んだ」。売春婦として働いて身体や精神を病んだ女性たちが集まって暮らす村の「棄てられた女たちのユートピア」。ゴミとして捨てられたものの仕分けを業とする「仕切屋」での日々「屑の世界」──など。
名を知られていない誰かの人生に気づく。そのディテールに目を凝らす。そうして見つめた細部に確かに存在する物語を提示する。いずれも、文章を書く力がなければできないことだった。加えて、すべてのルポルタージュの根底に流れる圧倒的な温かさ。正直に言えば、この本を初めて読んだ高校生の私は、沢木さんが持つものをすべて手に入れたかった。でありながら、その力は自分が自分の物語をきちんと生きていかなくては手に入れられないものであることも分かっていた。
名を知られていない誰かの人生に気づく。そのディテールに目を凝らす。細部に存在する物語を提示する。いろんな仕事をいろいろなやり方で進めているけれど、つきつめればそれが今の自分の仕事なのだと思う。それを仕事にできたのだな、とも思う。仕事の枠組みがどれほど窮屈でも、無茶なスケジュールの受注でも、誰かを取材できる時には背筋が伸びた。相手の人生の細かい断面を見ようとしたし、語られた人生を眺めるのではなくて見つめようと思ってきた。そうやって照らすことで、語られるべき物語がかならず見えてくることを『人の砂漠』に教えられていたからだった。
「棄てられた女たちのユートピア」の中に、こんな文章がある。
「ぼくは、かにた村についた翌日から、寮生とともに食事をし、仕事をすることにしていた。ノートを持って話を聞き回ったところで、何がわかるわけでもあるまいと思えたからだ。それに、何よりも、テレビの撮影風景を眺めているより、一緒に「生き」た方がおもしろそうだったからである」
このとき沢木さんは二十代。登山家の山野井泰史さん・妙子さんのことを書いた2008年の『凍』を読んで、そのあとがきで、沢木さんが山野井さんと一緒に山に登ったことを知って、沢木さんはあの頃と全然変わらないんだな、と思った。
あらすじ/『人の砂漠』沢木耕太郎 1980年
著者による初期のノンフィクションを代表する一冊。孤独死した老女、元売春婦、辺境の孤島に住む人々、鉄くずの仕切り屋、革命家、詐欺師……など、陽の当たらない場所で生きる人々の生にスポットを当て、鋭く温かい視線で描き出した8篇のルポルタージュが収められている。
案内者プロフィール
鈴木朝子。1977年千葉県生まれ。編集者。株式会社アピックス勤務。ふだんは企業・学校の広報媒体(コンセプトブック、ブランドブック、社史など)のライティング・編集に携わる。選書の仕事としては高校生に向けた「はじめの1冊×100」「将来をかんがえる10冊」など。当サイト主宰。
書籍情報
『人の砂漠』(1980年12月発刊)
現在、新潮文庫から発売中。