天翔ける(あまかける)
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選定者私物の本

案内文01

「松平春嶽で明治維新と近代日本を問い直す」
編集者・鵜沼聖人

選定者

『天翔ける(あまかける)』葉室麟

本年2018年は、明治維新から150年の節目にあたる。またNHKの大河ドラマの「西郷どん」が人気を博していることもあり、幕末維新に注目が集まっているが、この『天翔ける』も幕末維新を舞台にした歴史小説だ。


主人公は福井藩主の「松平春嶽」。春嶽といっても、その功績を直ちに思い浮かべられる方は少ないだろう。春嶽は、島津斉彬、山内容堂、伊達宗城と並び「幕末の四賢侯」と呼ばれた一人であり、春嶽が三顧の礼をもって熊本藩から招聘、重用した横井小楠は、幕末において早くから現実的な開国論を説き、東洋の哲学と西洋の科学文明の融合を唱え、近代日本の歩むべき道を構想した。小楠が作成した「国是七条」は、坂本龍馬の「船中八策」や明治政府の基本方針「五箇条の御誓文」にも影響を与えるなど、いわば春嶽は小楠とともに近代日本設計の「陰の指南役」だった。


著者は、この春嶽を軸に幕末史を読み替えることによって、最後の将軍となった徳川慶喜が大政奉還をしたのに、なぜ明治政府は悲惨な戊辰戦争を起こしたのか、最後まで攘夷に固執した長州藩が、なぜ一貫して開国路線を突き進む薩摩藩と手を結び、明治政府で要職を占めたのか、また徳川幕府に終止符を打った徳川慶喜の真の想いはどのようなものであったかなど、これらの不可解な謎に説得力のある回答を示している。


春嶽は徳川御三卿の田安家に生まれ、1838(天保9年)に福井藩の養嗣となり、わずか11歳で藩主となる。幼い頃から明晰だった春嶽は、大名としての心得を徳川御三家の水戸藩徳川斉昭に学び、薩摩藩の島津斉彬らと交流して国際情勢の知見も得、育ちの良さから人情味溢れた開明的大名に成長していく。やがてペリーが来航し、国内は攘夷か開国かで激しく揺れる。春嶽は島津斉彬や土佐の山内容堂らと連携し、西洋から新進の軍備や産業を学びながらも、日本伝統の倫理も重んじる新たな国を作るため、挙国一致で国難にあたる体制を作ろうとする。そのためには第14代将軍には徳川慶喜をと推したてるが、己の権力強化を目論む大老の井伊直弼が立ちはだかる・・。


その後、安政の大獄を経て、優柔不断で小才子の徳川慶喜、島津斉彬ほどの見識を持たない島津久光、私欲のため権謀をめぐらす長州などと激しくぶつかり合う。

春嶽・小楠は、政治家は高い倫理観を持って民のために働き、経済活動で内外と競うにも倫理に根ざす必要があるとする道義国家を作るべきと考えた。だがこうして「公」に尽くそうとした春嶽は、「私」に走る者たちに政治の中枢から追われ、小楠はある日の午後、何の前ぶれもなく突然に暗殺されることになる。


西郷隆盛や勝海舟そして坂本龍馬など、幕末の英傑たちは挙って春嶽・小楠の思想的な影響を受けた。しかし残念なことに、松平春嶽・横井小楠の名は日本史の教科書にあまり取り上げられず、幕末もののドラマで登場することもほとんどない。


著者は、50代半ばにして記者から作家に転じた。

2017年の12月に66歳で亡くなったが、その間、約60冊に及ぶ時代小説(歴史小説)を書き上げて来た。あるインタビューで、「明治維新の総括が必要だ」と語っていたようだが、作家「葉室麟」の遺作とも呼べるこの『天翔ける』で、近代日本を誘った150年前の明治維新を、もう一度問い直してみてはどうだろう。


案内人・鵜沼聖人さんによる「時代小説・歴史小説の楽しみ方」
 私が時代小説や歴史小説を好んで読むようになったのは、ここ十数年のことです。敢えて時代小説と歴史小説を分けますが、私は、時代小説のどのような処が好きになったかといえば、裏店の長屋で肩を寄せ合って互いに生活を営む庶民の様子。あるいは、種々の理不尽な情況に巻き込まれながらも、挫けることなく、筋を通して藩命に仕える下級武士の姿とそれを支える妻。など。言葉に置き換えると水戸黄門のドラマの域を出ないのですが、これらのシーンの底流に「慈愛」とか「矜持」など、日本固有の文化と呼んでもよい精神性(感性)が存在していることに強く惹かれました。
 また、これらの精神性(感性)の価値は、年々小さくなってきているような気がしますが、先輩たちの様々な努力によって永い時を経て育まれてきたものですので、もっと大切にしていかねばならないと思うようになりました。
 歴史小説も基本的には同様の側面がありますが、こちらは他に、個人の歴史観を磨くことも助けてくれます。イギリスの歴史家にE.H.カー(1892~1982)という人がいます。
彼は「歴史とは現在と過去との絶え間ない対話だ」といっています。その上で、カーは、歴史の事実として記録された人々の心や思想を、「想像的に理解」することの大切さを述べています。
 歴史小説は、そういった意味では、作家が、歴史の事実として記録された人々の心や思想に対し、視点を変えた仮説を提供することで、「想像的な理解」を助ける働きをしているのではないでしょうか。私は、そのような処に大変興味を覚えます。

あらすじ/『天翔ける(あまかける)』葉室隣 2017年

福井藩主・松平春嶽を主人公とする歴史小説。京の尊攘派激徒を鎮めるために上洛すべきか否か……重大な決断を迫られているところに土佐藩士・坂本龍馬が訪れる。彼の依頼を即決した上で、上洛についての意見を聞き−−−江戸末期から明治初期の波乱に満ちた時代、旧幕府と新政府の両方において要職に就いた唯一の人物である春嶽の生涯を追いながら、日本を守るために駆け抜けた軌跡をたどる。

案内者プロフィール

乍恐以書付御届奉申上候(おそれながら かきつけをもって おとどけもうしあげ たてまつりそうろう)
鵜沼聖人。1954年、福島県いわき市生まれ。印刷会社にて約40年間、飽きることなく会社史などの編集に従事。60歳になって「くずし字」の学習を始め「候文」の味わいに覚醒。また、先月、待望のワインセラーを購入。上段は14℃で赤、下段は5℃で白と一升瓶。一人眺めて悦に入る。
酔而件如(よってくだんのごとし)
〈編集部追記〉
大日本印刷に社史制作を専門に行う「DNP年史センター」という会社があり、鵜沼さんはその代表だった方。弊社は同社からライターとして仕事をいただいていて、みんなで酒席をご一緒させていただくことも時々ある。あるとき南麻布のお店で、ダイエーの中内功さんの『カリスマ』(佐野眞一)という本について語ってくださった話には、企業の歴史を伝えることに長く携わってきた方にしか生み出せない幅と奥行きがあった。

天翔ける(あまかける)

書籍情報

『天翔ける(あまかける)』(2017年12月発刊)
角川書店より発売中。