案内文02
「ただあまりにも大切な」 編集者・鈴木朝子
『塩狩峠』三浦綾子
高校の図書館に新しく購入する100冊を選ばせていただいたことがあって、それは「これまで読書の習慣がなかった高校生に向けて」というオーダーだった。高校生のみんなを取り巻く「もの」「こと」について16のテーマを設けて、そこに当てはまる本を選んでいった。本が難しいものに見えたり、読書が堅苦しい行為に感じられたりしないように、写真集・料理のレシピ集・雑貨の図録などを意識して入れた。例えば岩合光昭さんの『海ちゃん』や星野道夫さんの『ナヌークの贈りもの』、根本きこさんの『台所目録』、クウネル編集部による『私たちのお弁当』や『ラデュレのお菓子レシピ』などが入った。漫画はなしでという約束だったけれど、1冊だけとお願いして『夕凪の街 桜の国』を入れた。
文字だけの本も、読書感想文コンクール課題図書のようなものからなるべく遠いところにあるものを選んだ。選書を外注しなければ入らなかったであろう本を選びたいと肩に力が入っていたし、無名の良書を紹介したいという意気込みもあった。要は、読書の概念を変えさせる力のある尖ったリストを作りたかった。
16のテーマのなかに「かっこいいとはこういうことさ」というのを設けて、そこに、生き方をもって「かっこいい」と思わせる人が書いた本やそういう人のことを書いた本を集めた。『成りあがり』(矢沢永吉)や『遺書』(松本人志)、『空中ブランコ』(奥田英朗)などが入った。
その「かっこいい主人公」を集めたかたまりのなかに、ありきたりと思われてもいい、課題図書や学校指定図書と重なってもいいからかならず入れたいと思ったのが『塩狩峠』だった。ほかの本だって真面目に選んだけれど、『塩狩峠』を選んだ時、ひどく真面目な気持ちだった。
世の中を斜に見たり、大人を疑ったり、自分が特別な存在だと勘違いしたりした若い日々のなかに、この本の存在がいつもあった。人を愛し、人に愛され、人のために心を尽くし、命を投げ出した主人公に、いつも律された。真面目であれ、優しくあれ、周囲の人への感謝を忘れるな。生きることをなめてはいけない、さぼってはいけないと。集まった主人公のなかで、この本の主人公がいちばんかっこよかった。
100冊選書では、一般的な「理想像」の枠のなかでだけものを考えているかもしれない高校生たちに、新しい角度の視点や、持ったことのない発想を提供したかった。見たことのない未来を見ようとするパワーをプレゼントしたかった。そういう変化球だらけのリストのなかに、どうしてもまっすぐに投げたい一球があった。
あらすじ/『塩狩峠』三浦綾子 1973年
明治末期の北海道旭川市を舞台に、実際にあった出来事をモデルにした物語。主人公の鉄道職員・永野信夫は、カリエスで病床にあった少女に心を寄せ、結納のために札幌に向かう。彼の乗った列車が塩狩峠の頂上に差しかかった時、最後尾の客車の連結部が外れ、後ろ向きに暴走する。乗客を救うために主人公は…。
案内者プロフィール
鈴木朝子。1977年千葉県生まれ。編集者。株式会社アピックス勤務。ふだんは企業・学校の広報媒体(コンセプトブック、ブランドブック、社史など)のライティング・編集に携わる。選書の仕事としては高校生に向けた「はじめの1冊×100」「将来をかんがえる10冊」など。当サイト主宰。
書籍情報
『塩狩峠』(1973年5月発刊)
現在、新潮文庫から発売中。