案内文02
「時が動いていくということ」 編集者・鈴木朝子
『虹色のチョーク 働く幸せを実現した町工場の奇跡』小松成美
ちょうど目の前でドアが閉まりそうだった。デパートの中に入ろうとして、ある家族とすれ違った時のことだった。
お母さんらしき方が先に出てきて、後に続いたのが20代前半くらいの息子さんと思われる男性だった。お母さんは、ベビーカーを押していた私に気づいて息子さんを振り向き、「ドア…」と声をかけた。でもドアは、彼が通り抜けたあとに私の前で閉まった。
「通りやすいようにドアを手で押さえる」という親切は別にあたりまえのものでもない。それなのに、この時にお母さんが見せた表情ほど悲しそうなものを、あまり見たことがなかった。息子さんはおそらく知的障がいのある人だった。
健常者だって、そんなことしてくれる人ばっかりじゃありません、と言いたくなったけれど、そういうことではないのだと思う。そんな小さなことでもいいから、人に親切にする、人の役に立つことができる息子さんの姿を、お母さんは見たかったのだろう。それができなかったことを、辛く思ったのだろう。その辛さはもしかしたら、障がいのある子どもを育てることに伴うさまざまな困難のなかで、一番大きいものなのかもしれないな、と思った。
『虹色のチョーク』では、この本の題材である「日本理化学工業」という会社で製造ラインを担う男性のお母さんの、こういう言葉が紹介される。
「息子の人生が、時を止めず動いているのは会社のおかげ」
人生の「時」が止まる。社会は動き、人々は皆動いているのに、彼あるいは彼女の人生だけが動かない。知的障がいがある子どもが大人になる過程で家族はそんな風に感じるのだ、ということに驚く。「時」とは時計の針が進めば動くものではなく、他者との関係性があってこそ動いていくものだと思い当たる。そしてその関係性は、社会活動の一端を担う「仕事」を通して豊かに築かれていくのだということに気づく。
人は衣食住が足りていれば幸せなわけではないと、今日の日本理化学工業を築いた会長が本書の中で話す。多様性を認め合う社会を実現しようと動く今の時代のなかでなお、障がいの程度によって「できること」「できないこと」には大きな差がある。障がいがある方々の社会進出が進むなかで、その差はもっと顕著になるだろうと思う。知的障がいがある方々が、会社の製造ラインを担当し、製品の仕上がりに責任を持つ。日本理化学工業という会社で日々生まれているこの確かな事実の一つひとつが、いろいろなかたちで障がい者の「時」を動かしていく社会を作っていくことを願う。ドアの前で俯いてしまったお母さんと、あの息子さんの「時」もまた。
あらすじ/『虹色のチョーク 働く幸せを実現した町工場の奇跡』小松成美 幻冬舎 2017年
チョークの製造会社である日本理化学工業(株)社員数の7割を占める知的障がい者が、日々の業務に向き合う姿を描いたノンフィクション。障がい者雇用の理想と現実、同社の思い、同社での勤務が社員たちの家族にもたらしたものを、著者が3年半にわたる取材をもとに描き出した。会長、社長、社員たち本人、社員の家族へのインビューと、製造現場のドキュメンタリーによって構成されている。
案内者プロフィール
鈴木朝子。1977年千葉県生まれ。編集者。株式会社アピックス勤務。ふだんは企業・学校の広報媒体(コンセプトブック、ブランドブック、社史など)のライティング・編集に携わる。選書の仕事としては高校生に向けた「はじめの1冊×100」「将来をかんがえる10冊」など。当サイト主宰。
書籍情報
『虹色のチョーク 働く喜びを実現した町工場の奇跡』(2017年5月発刊)
幻冬舎から販売中。