「邂逅 close to you」2018.12 #5

小麦の味がストレートに伝わる
“素朴でやさしいパン”を創り続ける

取材・文/岡田 卓

田中 朗さん(「pain de LASA」主人)


※原稿の内容は取材当時のものです

 新宿駅から小田急線の各駅停車に乗って13分、東京・世田谷区の閑静な住宅街にある梅ヶ丘駅から徒歩1分。ガラス張りの大きな窓、白地にブルーの文字で「pain de LASA」(パン・ド・ラサ)の看板が目に入る。
 朝7時の開店と同時に、老若男女問わずこの店を訪れるお客様は後を絶たない。小さな販売スペースには80種類にのぼるパンが所狭しと置かれている。国産小麦の風味に満ちたバゲットやクロワッサンといった食事系、クリームパンやブルーベリーデニッシュに代表される菓子系、カレーパンや玉子サンド、ハムとチーズのデニッシュ等の惣菜系など、それぞれが魅力溢れる色彩を放っている。これらはみな、オーナーの田中朗(あきら)さんが、「自分ならではの“美味しいパン”の完成イメージ」を具現化すべく、35年近くに及ぶパン職人生活を通じて身につけた知識・技術・経験のすべてを注ぎ込んで創り上げたものである。

葛藤の末の決断

 1963(昭和38)年、東京都西多摩郡日の出町で誕生した田中さんが、パン職人への道を歩み始めるまでには少なからぬ葛藤があった。実家は1924(大正13)年に創業された歴史ある鉄工所を営んでおり、長男として生まれた田中さんは、幼少の頃からずっと跡取りとして大きな期待をかけられて過ごしてきた。
 「両親の期待がすごかったので、ずっとプレッシャーを感じてましたね。自分のなかでは、無条件で跡を継ぐって思いになっちゃっていたものの、一方でやっぱりやりたくないなぁって気持ちも強くあったんです」
 高校卒業後の進路を決めるにあたり、数年間にわたって悩み続けた。そのうえで、東京都立大学(現・首都大学東京)に入学して機械工学を専攻したが、入学後も将来への夢は揺れ動く。
 「実家が部品を作っていたこともあり、最終製品を作りたいという意識が強かったんです。染物や漆の器といった日本の伝統工芸や、和菓子の世界にも興味があったけれど、結局は踏み出す勇気がなかった。20歳を過ぎていたこともあり遅すぎるかな、と」
 そこで頭に浮かんだのが、浪人時代にはまったことのあるパンの世界だった。田中さんが、原点となる“理想のパン”に出会ったのは、国立市で一人暮らしをしていた頃のこと。「醍醐味」(後に吉祥寺に移転。現在は閉店)というパン屋さんが近くにあり、そこのパンに魅せられたという。
 「醍醐味のパンは、小麦の味がしたんですよね。ナンと食パンの中間みたいな丸いパンがすごく美味しかった。それと、一般的なふわふわしたものと違い、小麦粉の香りと味がストレートに伝わるクリームパン。この2つの素朴な味わいは、パン職人になろうと決めた際、目指すべきものとなりました」
 大学進学を機に吉祥寺に引っ越していた田中さんは、近所にあったパン屋さん「モンパン」のスタッフ募集の貼り紙を見て門を叩き、アルバイトとして採用される。21歳の時だった。

より高いレベルを求めて

 大学(夜間部)に通う傍らで、日中はアルバイトに励む毎日が続いた。約半年後、「モンパン」が閉店したため、阿佐ヶ谷の「好味屋」1で2年弱勤める。さらに1987(昭和62)年には、「サンメリー」2(最初は吉祥寺店、まもなく日吉店に配属)に正社員として入社する。
 この間、田中さんは良き先輩にも恵まれ、楽しい時間を過ごす一方、アルバイトでありながらも、他の社員と同じようにパン製造のさまざまな工程を経験する機会に恵まれた。
 「アルバイトと言えば片づけや販売などが中心と思われるかもしれないけど、運よくいろいろとやらせてもらえました。その頃からいずれは自分で店をやるという気持ちが芽生えていたと思う。パンの専門書を読んだりして、何が違うとどう変わるかなどは勉強していました。ただ、理論的な部分と実際はまた違うので、わからないことのほうが多かった」
 その後、吉祥寺の「醍醐味」の職場も経験し、「大地(おおち)法」3と呼ばれる製造法を学んだ。最初に水の量を通常より増やして粉としっかり混ぜ、低温の状態で発酵を抑えつつ長時間かけて水と粉を馴染ませるものである。今では主流となっているが、田中さんは小麦本来の風味を最大限活かすため、当時からこの手法にこだわることになる。
 いくつかの店を経験するなか、田中さんにはより高いレベルを目指したい、という欲求が徐々に高まってくる。ちょうどその頃、北海道勇払郡占冠村(しむかっぷむら)にある「トマム・アルファ・リゾート」4にショッピングモール(フォーレスタモール)をつくり、新しくベーカリーショップ「アーリーバード」5を出店するという話が持ち上がる。トマム・アルファ・リゾートは当時、パンづくりで評判の高いホテルオークラ系列の運営であり、新しい店でもオークラ出身者がチーフを務めた。田中さんは冬の1シーズンだけこの店へ行くことを決める。
 「実はこの時の経験がすごく勉強になりました。チーフ、チーフの部下、自分の3人しかいなかったため、自分が仕込み、成形、オーブンとすべてをやることになった。それまでは最初から最後までひとりでやるという経験がなかったんです」
 チーフらは店の立ち上げ期ということもあってマネジメントに奔走し、現場にはほとんどいなかった。師についてマンツーマンで学ぶことはできなかったものの、ホテルオークラ流のやり方はチーフがひと通り教えてくれた。一方で、リゾート地だったため、お客様は宿泊客が中心であり、とくに平日はチャレンジしながら美味しいパンを追求する余裕もあった。
 春になって東京に戻った田中さんは、「ビゴの店 銀座店」、さらに東京プリンスホテルのベーカリーショップに勤務する。そのなかで、「自分の店を出したい」という気持ちがどんどん強くなっていった。そして開店資金を貯めるべく、宅配便配送の仕事に就く。
 「パン製造設備の展示会へ行き、オーブン(窯)やミキサー、クロワッサンを焼く機械などを物色したところ、開店資金は500万円あればなんとかなりそうだなと思いました」

念願の出店──「pain de LASA」誕生

 1994(平成6)年2月、田中さんは30歳の時、小田急線・梅ヶ丘駅から徒歩4分、商店街を抜けた住宅地に、念願だった自分の店「pain de LASA」を構える。
 白木をふんだんに使った小さな店は、まるでパリの街角にある洒落たパン屋さんの趣を醸し出した。店名は、チベットの「ラサ」6からとった。田中さんは高校生の頃、「NHK特集 シルクロード」7というドキュメンタリー番組がとても好きで、とくにラサは憧れの場所だったという。
 「フランス語っぽくていいかなと。店のドアに描かれたポップな看板は、オープンの時にいたアルバイトの女の子が美大生だったので、手書きでデザインしてくれたんだよね。たまたま出会ったスタッフにも恵まれました」
 開店直後、製造はひとりで賄ったものの、とても手に負えないことがわかる。運よく、梅ヶ丘駅前のチェーンのパン屋さんが駅改修のため閉店したため、製造スタッフが加わり、そこから次第に軌道に乗せることができるようになっていく。
 田中さんの目指したパンの原点は、国立時代の「醍醐味」で味わった小麦の風味がストレートに感じられる素朴でやさしいパンであった。
 「醍醐味のパンが美味しかった理由に、国産の小麦を使っていたことが挙げられます。同じような小麦を使えばあの味を出せると思っていたので、バゲット、クリームパン、クロワッサン、さらにデニッシュ等のハード系にも国産の小麦を使いました」
 とくにバゲットには当初から自信があったという。
 「砂糖やバターなどの副材料を入れないため、バゲットは粉の特性がストレートに出ます。さらに、発酵の具合にもこだわりがありました。他店のバゲットが少し発酵しすぎているため、味が飛んでいるように感じていた。そこで自分は、水を多くして生地を柔らかくし、低い温度で発酵を抑えるやり方で作った。パンというのは発酵すれば発酵するほど、生地の中の酵母が糖分を食べる結果、旨味や甘味が失われてしまう。それを低温で抑えることによって、粉の甘味が残って美味しくなる、と考えました」
 また、開店当初から看板商品と位置づけていたクリームパンは、噛み応えがある白っぽい生地が特徴で、もっちりした自家製カスタードクリームと抜群の相性を生んだ。
 「カスタードクリームについては、有精卵を取り寄せるなどいろいろとこだわっているつもりですが、あのクリームの美味しさは、材料も確かに大切なんだけど、水分を飛ばしていって、ちょっと硬めに仕上げることで風味が増して素朴な味になっているから生まれる。うちはバニラも入れてないしね」
 生地は小麦の風味を前面に出すことにこだわり、クリームも飾りのないものに徹した結果、素朴でやさしい飽きのこない味に仕上がった。

「暗黒時代」を乗り越えて

 開店後順調に推移していたpain de LASAであったが、半年が過ぎる頃から試練に見舞われる。1994(平成6)年の夏、日本列島を記録的な猛暑が襲ったのである。東京の8月の月間平気温が史上最高(28.9℃)を記録し、「観測開始以来の猛暑」と言われた。熱帯夜が何十日も続くなか、パンの消費は極度の不振に陥った8。さらに、梅ヶ丘駅により近い商店街に、ライバル店9が開店したことも競争を加速させた。
 「売上げはあっという間に3分の1まで落ち込んだ。スタッフも複数人雇っていたため、自分が毎日20時間くらい働いても、1日2万円の赤字が出る事態に陥った。その頃は、よく自殺する夢も見ましたね」
 厳しい経営が続くなか、スタッフをどんどん減らさざるを得なくなり、結果的に販売担当の1人だけの体制になった。まさにギリギリの状態で、2年くらいは我慢の時が続いた。
 こうした「暗黒時代」にあっても、田中さんは手を抜かないで愛情を込めてパンを創ることだけは継続させた。一方で、1996年頃から、こだわりの手づくりパンに対する人気が次第に高まってきた。ライバル店と人気を二分するかたちでしのぎを削り、梅ヶ丘は「パンの街」と呼ばれるようになる。盛り上がりをみせるなか、pain de LASAの常連客も急速に増え、売上げも右肩上がりに推移する。新しいスタッフも加わり、店の運営は良い方向へと向かっていった。
 2006年5月には、梅ヶ丘駅から徒歩1分という現在の場所に店を移転する。借りていた店舗が手狭になっていたほか、建物の老朽化も移転の理由であった。
 ブルーと白のイメージの外観、白を基調に木目を配した内装、そして店内はもとより、隣接する製造スペースも外から見ることのできる大きな窓ガラスが特徴だった。
 「店の内装や外観はすべて自分で決めました。大きな窓ガラスは、中で何をやっているのかがわかるほうがいいし、スタッフもオープンな環境のほうが絶対に気持ちがいいと考えた。お客様からも、中まで見えるのは安心できるとよく言われました」
 この移転を機に、経営の好調さに拍車がかかる。商店街から路地に入った最初の店と比べ、新しい店は駅からすぐという利便性も手伝い、新しいファンも着実に増えていった。
 「移転したとたん、以前とは比べられないほど忙しくなった。よく場所なんて関係ないって言うけれども、やっぱり変わるんですね、すごかったんですよ」
 新しい店は広くなったとはいえ、販売スペースは4坪にも満たない。このため、お客様が4、5人入店すると、身動きがとれないほど混み合う。レジも販売担当だけでは対応しきれなくなるが、そんな時には製造のスタッフが売り場のサポートにすっと入るのが、pain de LASAの特徴である。
 「美味いパンをつくることはもちろん大切だけど、いくら美味くても、お客様を放ったらかしにして創っているのは駄目なんで。製造からお客様が見えることが相乗効果をもたらしている。まずはお客様第一、ということは、徹底されていると思います」

優れたクオリティと手頃な値段の両立

 Pain de LASAのパンはどれも美味しい。優れたクオリティはどのようにして実現しているのだろうか──。
 「創りたいパンの完成イメージは、常に自分の中にあります。それを具現化するために、素材や製造法、焼き方などのベストな組み合わせを考えることになる。例えば、小麦粉一つとってみても、だいたい特性が決まっているので、どれとどれを混ぜれば、補い合ってイメージ通りのパンに仕上げることができるかはわかります」
 国産・外国産を問わず、その粉が持っている特性・風味を引き出すことが大切だというわけである。田中さんは、かつては外国産の小麦がなければ自分のイメージの具現化が難しかったが、今では国産だけでも十分にやれるようになっていると話す。
 「日本の小麦の中では、『春よ恋』がそれまでの国産品の弱点10を克服した小麦であり、うちはとくに北海道知床の斜里町産『春よ恋』11をいちばんよく使っている。同じ銘柄でも、自分で畑を定期的に見に行って、ここで出来たというのがわかる小麦を使えば安心できますからね」
 また、自家製酵母は、工業的に作ったイーストと比べて酵母の数が少なく、発酵力も弱い。低温度で時間をかけながら発酵を抑えつつ生地を作る製造法には、この自家製酵母が適している。
 「ひと昔前は、膨らんでいるパン、ふわふわのパン、ボリューム感のあるパンのほうが流行っていたけど、イーストを使うとどうしても小麦の風味が飛ぶんですよね。うちでは、ハード系のパンの場合、レーズンから種をおこし、20時間くらい寝かせた自家製酵母を用いていますが、中がハチの巣のような状態になり、火が通りやすいし軽くなる。なおかつ味わいが増し、もっちり感も出てきて美味しくなる。自分はあくまでも完成のイメージを目指した時、どれが適しているかを考えながらその都度判断してやっています」
 一方で、pain de LASAのパンは、リーズナブルな価格でも定評がある。
 「パンは日常品でもあるし、梅ヶ丘周辺の人は値段に厳しい。有名店の方は、もちろん地元客もいるでしょうけれど、“パン通”と言われる人たちが遠くから求めてやって来る。インターネットの活用もあるし、そもそもの視点が違うんだと思います。自分は絞り込むよりも最大公約数を目指すほうがいいかな、と。より多くのものを多くのお客様に、ということを考えていく時に、全体的に80点以上にしなくちゃいけない。もちろん、技術もなければならないんですけど、流れの中での微調整とか、トータルで見る目というものがいちばん大事だと思う。一つひとつの仕事をトータルに見ながら取り組むことが楽しさだし、それがたぶん自分のなかで、技術などよりも自信をもっているところだと考えています」
 さらに、田中さんはこう付け加える。
 「自分で買わない、買えないような値段はつけられないですよね」
 パンは単価が安いため、ある程度量も作らないとビジネスとして成り立たない。もちろん、お客様を絞り込んでも納得いくものしか出さない、というやり方も今はあるが、田中さんはそれはできないという。

手を着けていない「残りの30%」をかたちに

 pain de LASA は、2019(平成31)年2月に開業25周年を迎える。そのなかで田中さんが今後も続けていきたいと考えているものは何だろうか──。
 「今まで食べてきたパンの中で自分が美味しいと思ったものを、自分なりの完成イメージを目指して創ることで商品化してきました。もちろん、お客様が求めているものへの対応も大切になるけど、結局のところ、最後はある意味で既製品の真似しかないんで。自分がそれまでに蓄えてきたものを組み合わせるなかで、真似じゃないようなかたちで出していくことでしょうね」
 人気商品の一つであるベーコンエピやチーズフィセルといったスティックパンについても、以前から多くの店が手掛けている商品だという。ただ、多くのパン屋さんで出している大きいサイズだと食べにくいうえ、ちゃんと火が入ったほうが美味しいと考え、田中さんは食べやすさと食感を意識したかたちで提供している。
 「例えば“麦の穂”を意味するベーコンエピは、穂に当たる部分を小ぶりに、シュッと長細い焼き上がりにしているのが特徴です。このあたりはうちのオリジナリティと言えるのかもしれない。本当に自分が食べた時の食感、どんな味を目指しているか──という点がすべてのカギを握ります。それを追求していくと、味はもちろんのこと、自然にこの形とか、この大きさとかに落ち着いてきます」
 最後に、これからの夢について、田中さんはこう語る。
 「自分の中で美味しかったなと思ったパンをどんどんかたちにしていって、やってきてはいるけれど、まだできていないものも少なくない。パンのバリエーションをさらに拡げていきたいですね。例えば、サンドウィッチ系も玉子サンド以外やれていないのが現状です。もっといろいろなかたちで出したいとずっと思っている。まだ70%くらいですよね。残りの30%くらいは出せていないので、それをかたちにしていくこと、それが夢っていうんですかね」

1)好味屋
昔からの製造法を続けるベーカリーチェーン店。当時はとても人気のあるパン屋のひとつだった。「醍醐味」は、好味屋の社長が、粉や製造法の研究に取り組むために、特別なブランドとして出した店と言われる。
2)サンメリー
1946(昭和21)年創業の老舗ベーカリーチェーン店(赤羽発祥)。当時は「ポンパドウル」(元町)、「サンジェルマン」(渋谷)と並び称される存在であった。
3)大地法
エレクトロニクスの研究者であり、乳酸菌の研究でも知られる大地修造氏(1924-2015)らによって考案され、特許を取得したパンの製造法。
4)アルファ・リゾート・トマム
1983(昭和58)年に開業した北海道勇払郡占冠村にあるリゾート。当時の経営は「ホテルアルファサッポロ」を運営するホテルアルファ(ホテルオークラ系)と占冠村の共同出資による第三セクターが担っていた。過剰な設備投資が災いしてバブル経済崩壊とともに行き詰まり、運営会社は経営破綻し、2005(平成17)年に星野リゾートが運営を引き継いだ。
5)アーリーバード
フォーレスタモール内にオープンした手づくりのベーカリーショップ。天然酵母パンが評判を呼び、デニッシュに加えて、素朴な味わいが楽しめる食事系パンが人気を博したが閉店。
6)ラサ
吐蕃時代(7世紀-842年)に成立したチベットの古都。吐蕃時代やダライ・ラマの時代(1642-1959年)に政権の本拠地がおかれて政治的中枢となるとともに、文化的中枢であり続けた。現在は中華人民共和国チベット自治区の中央部に位置し、同自治区を構成する「地級市」のひとつ。
7)NHK特集 シルクロード
東西文明交流の道である秘境・シルクロードの全容を初めてテレビカメラに収めた、日中共同取材のドキュメンタリー番組。1980(昭和55)年4月に放送スタート。中国・長安(西安)を出発し、パキスタンとの国境パミール高原までの行程を毎月1本・12集で伝えた。喜多郎作曲の悠久の時を感じさせるシンセサイザーのテーマ音楽とともに、一大ブームを巻き起こした。 8)猛暑) 暑さでパンが傷みやすくなるうえ、人々の食欲が落ちて冷たい水ものに魅力を奪われる。その結果、パンの消費量はこの年の夏に激減した。
9)ライバル店
1994(平成6)年9月オープンの「La FOUGASSE(ラ・フーガス)」。2007年にあきる野市に移転、新たにパンとカフェの店としてオープンしている。
10)国産品の弱点
パンづくりは、小麦粉に含まれるたんぱく質の量に大きく左右される。ひと昔前の国産小麦粉はたんぱく質が少なく、どうしてもつながりにくかったり、発酵させて膨らんできた時に型持ちが悪く崩れやすかったりした。
11)春よ恋
北海道で栽培されている春蒔きの小麦品種とそれを用いた小麦粉。100%国産小麦粉特有の素朴なやさしい安心感のある小麦本来の風味が得られる。Pain de LASA が使用しているのはオホーツク海に面した知床半島の入り口に広がる斜里町産。とくにこの地域は「ヘイバイン農法」(8月の収穫の直前に一度小麦を刈り倒し、そのまま畑で数日寝かせる)という特殊なやり方を採用しており、収穫時の小麦畑は太陽に照らされて黄金色に輝く。

DATA

「pain de LASA」
東京都世田谷区梅丘1-29-6
営業時間:7:00~18:00 月曜日および第1・3・5日曜日休
電話:03-3425-4774