JR中野駅北口から延びる中野サンモール商店街をまっすぐ行くと、中野ブロードウェイに辿り着く。その直前の路地を右に曲がると、小さな飲食店が軒を連ねているが、その一画に「ちゃんこ 力士 二子竜」の看板が目に留まる。1974(昭和49)年1月、まだ22歳だった田名部保身さんが、新婚の奥様・よし子さんと二人三脚で開いた店である。
4年余で終わった相撲人生
1951(昭和26)年2月、青森県八戸市で誕生した田名部さんは、子どもの頃から野球に明け暮れる毎日で、オフシーズンとなる冬はスケートに熱中するスポーツ少年として育った。中学校に進学すると、その体格の良さを買われて相撲部に入部するが、当初は試合に出れば負けるという状況だったという。
ところが中学卒業後、地元にある鉄鋼会社(日本高周波鋼業㈱)へ就職し、相撲部に誘われると、相撲取りとしての素質が次第に開花していく。スポーツ少年として過ごした日々が知らず知らずに強固な肉体を創りあげていたのである。
「この頃になると、足腰と腕力だけは誰にも負けないくらいの自信があった」
そして、地元・八戸市相撲大会において全勝優勝を遂げたことで一気に注目を集める。大会での活躍を目にした八戸市長が二子山部屋に連絡し、二子山親方(“土俵の鬼”と称された元横綱・初代若乃花)が田名部さんの実家を訪れてスカウトすることになる。
「同じ青森県出身で、子どもの頃からの憧れのヒーローだったあの有名な横綱若乃花が、まさか直々に来られるとは思ってもみなかったからね。会ったとたんに身体がぶるぶると震え出し、感動、感動で胸がいっぱいになった」
二子山部屋へ入門後、1969年1月に初土俵(前相撲)を踏み、同年3月場所に序の口二枚目でデビューする。身長こそ182㎝あったものの、体重(80㎏)は体質的なこともあってなかなか増えず、体力負けする相撲が少なくなかった。部屋では“土俵の鬼”の指導のもと、連日厳しい稽古が続いた。「可愛がり」(厳しいしごき)が日常的に行われる時代でもあった。
当時の二子山部屋には、一つ上に二子山親方の弟にあたる貴ノ花1関(当初の四股名は花田。1965年5月場所デビュー)に加え、隆の里2関(当初の四股名は隆ノ里。1968年7月場所デビュー)、若三杉3関(当初の四股名は朝ノ花。1968年7月場所デビュー)など、同じ青森県出身のスター候補生が集まっていた。
「貴ノ花関とは入門が4年違ったこともあり、付き人をやったこともあった。一緒に飲みに行くと可愛い娘がわーって寄ってくる。さすがスターだなあと思った。貴ノ花関には稽古もたくさんつけてもらった」
しかし、田名部さんの相撲人生は、思わぬかたちで終わりを告げる。1973年9月場所において、腰や腕、左手首などに大怪我を負う。力士にとっては致命傷であった。
「とてもじゃないけど相撲を取れる身体じゃなかった。すぐに『引退』の二文字が頭をよぎったね」
同年10月には引退を決意する。希望に燃えての入門であったが、わずか4年余で関取への夢が破れ、部屋を後にすることになる。生涯成績は97勝99敗14休、最高位は幕下61枚目であった。
“現役力士”によるちゃんこ料理店
突然の挫折を前に心の支えとなったのは、この頃に知り合ったよし子さんの存在だった。そして田名部さんは、1973(昭和48)年10月の引退と同時に、よし子さんとの結婚、「ちゃんこ料理店」の経営と、矢継ぎ早に自らの人生設計を具体化することになる。
「ちゃんこ料理店を開こうと決めたのは、それしか取り柄がなかったからね。結婚もしたし、とにかく第二の人生を、ということで必死になって取り組んだ」
相撲部屋には、若手力士が交代制でちゃんこ番を務める仕来りがある。二子山部屋でも、独自の伝統の出汁や味があり、先輩から後輩へと引き継がれていた。この時の経験が、田名部さんの第二の人生を大きく後押しした。
「看板メニューの『ちゃんこ鍋』は、部屋の伝統的な出汁をベースにしたからね。ほかにも、すき焼き風鍋、ジンギスカン(焼肉)、刺身料理と、特色のある部屋の定番メニューを作ってきたから、自分の店でアレンジすることができた」
中野という場所を選んだ理由はとくになかった。二子山部屋があった中野新橋から遠くないエリアで、手頃な物件を探していたところ、知人がいまの店舗の物件を紹介してくれたのである。「とにかく安かった」ことがいちばんの決め手だったという。開店に向けた改装工事と設備・備品等の準備に要した資金(約250万円)は、実家からの借金とよし子さんの蓄えでなんとかまかなった。
「ちゃんこ 力士 二子竜」は、当時の若三杉関の後援会長による命名であった。引退こそしたものの、現役同然の若い力士が、二子山部屋伝統の「ちゃんこ料理」を提供する──このことをシンプルに表した。国技館に近い両国周辺には当時、元関取による「ちゃんこ料理店」が少なからずみられたが、中野周辺にはまだ1軒もなかった。しかも、両国周辺の多くの店主が断髪していたのに対し、田名部さんは丁髷(ちょんまげ)姿の“二子竜”のままで店に立つことを考えた4。
「相撲取りとして知られていないうえにまだ若かったこともあって、とにかく“現役力士”の店、というイメージを前面に打ち出したかった。ゼロからのスタートだから、少しでもお客様に喜んでもらえることならば、何でもやってやろうと思った」
もうひとつ、「力士」ならではの“売り物”を創りたいと考案したのが、瓶ビールの一気注ぎである。「よーっ えーっしゃぁっ」という掛け声とともに、瓶をほぼ真っ逆さまにして、豪快にどばぁっどばぁっと一気にビールをグラスに注ぐ。“現役力士”ならではの腕力と俊敏性なくしてできない技であった。空気の入り具合が絶妙で、泡立ちが良くコクとキレのある美味いビールに仕上がる。
「我流で研究した瞬間芸のひとつ。初めの頃は何度も失敗したけれど、試行錯誤の末、ようやく自分の技にすることができた」
ほとんどのお客様は、この瞬間芸を楽しみに来店する。最初のビール一杯だけで、わぁーっと店中が一気に盛り上がる。本来であれば日本酒党だけれども、最初の一杯だけはこのビールを味わいたい、という常連客も少なくない。「特徴をもった店にしたかった」という田名部さんの狙いは見事に的中する。
「素朴な味わい」への挑戦
田名部さんは「力士」を開店させるにあたり、自分たちの理想的な店についてよし子さんと何度も意見を交わした。その結果、たどり着いた結論は、「素朴な味わい」と「和気あいあいの団欒」──という2つのキーワードであった。
まず「素朴な味わい」である。店の看板メニューは、「ちゃんこ鍋(醤油)」「ちゃんこ鍋(味噌)」「ちゃんこ鍋(水炊き)」という3品とした。これを相撲の番付方式に表記し、東西の正横綱と東張出横綱と位置づけた。
なかでもメインをはる「ちゃんこ鍋(醤油)」は、“ソップ炊き5”と呼ばれるもので、鶏ガラでとった出汁をベースにさまざまな新鮮な食材を煮込む料理である。当然、二子山部屋時代に覚えた伝統の味が基本となる。ただし、部屋のちゃんこ鍋はご飯が進み、水分を大量に摂取できるように、通常よりもかなり塩辛く作られるのが普通であり、そのまま店の一般客用に出せるものではなかった。そこで改良につぐ改良が重ねられる。
「現役時代からしょっぱいちゃんこ鍋は好きじゃなかった。鶏ガラの出汁のうまさを前面に出すことによって、とにかくさっぱりとした素朴な味を目指そうと考えた。作る人間も素朴でさっぱりしているからね(笑)」
改良作業はよし子さんと二人三脚で取り組んだ。そして苦心の末、鶏ガラに醤油や酒、味醂、さらにニンニクや長ネギの葉、玉ねぎなどを加え、看板メニューである「ちゃんこ鍋(醤油)」のスープが完成する。具材は、鶏もも肉、合挽(鶏・豚)のつくね、鰯のつみれ6、青森産の牛蒡、油揚げ、豆腐、椎茸、白菜などである。これらが混然一体となって、あっさりとしていながらも奥行とコクがあり、飽きることのない「素朴な味わい」を堪能できる絶品のちゃんこ鍋が出来上がった7。
明るい笑顔が「団欒」を育む
1974(昭和49)年1月、「ちゃんこ 力士 二子竜」がオープンする。大相撲を引退してからわずか3カ月後のことであった。丁髷を落とさず、「“現役力士”によるちゃんこ料理店」というイメージを前面に押し出したアイデアがマスメディアにも取り上げられ、店は順調なスタートを切った。
「二子山部屋の先輩や後輩もよく遊びに来てくれた。貴ノ花関や隆の里関、若三杉関なども、カウンターに陣取ってしょっちゅう飲み食いしてくれた。それがまた口コミで広がった。後には、“現役の横綱が来る店”としても知られるようになった」
店が評判を呼んだ背景のひとつは、「素朴な味わい」である。看板のちゃんこ鍋のほかにも、「カツオのたたき」や「山芋梅たたき」8といった二子山部屋伝統の味をベースにしたメニューが定番となった。冬には「ブリ大根」「生ガキ」なども人気を博した。
さらに、地元である「青森県産」を中心とした特産品が、お客様からのリクエストに応じるかたちでメニューに加わった。「上肉馬刺」「するめいか刺」「真だこ刺」「しめ鯖」「ホタテ刺」「松前漬け」などである。とりわけ、五戸町産の馬肉は“純国産”馬肉特有9の旨味と味の濃さが特徴で、初めて口にしたお客様は誰もが絶賛した。
「とにかく『地元重視』を貫こうと考えた。自分の故郷である八戸で食べることができる美味しい食材を、東京の人にもぜひ味わってもらいたかった。地元の味=素朴な味わいでもあったからね」
上記の海産物や馬肉に加え、牛蒡やにんにく(田子町)、山芋などの青森県産の食材は、すべて地元から獲れたてが直送されている。
もうひとつの「和気あいあいの団欒」も、店の大きな魅力となった。調理担当の田名部さん・接客担当のよし子さんという夫婦の息の合った笑顔に溢れた対応が、アットホームな雰囲気を醸し出した。
田名部さんによるビールの一気注ぎとともに、連発される「ダジャレ(=おやじギャク)」も、お客様に和やかな空気をもたらした。ガスコンロに「ちゃんこ鍋」をのせて火を点ける時の、「リューライター!」「ガッチャマン!」などがその代表例である。
「お客様に笑顔になってもらいたいと思うと、自然に出ちゃう。でも、最近は高度なやつはなかなか出てこない。単純なダジャレしか出なくなっちゃったよ(笑)」
ダジャレの質に変化があるかどうかは別にして、常連客からは、このお決まりの儀式(?)がないと落ち着かない、という声も聞かれる。
素朴な味わいを楽しみ、和気あいあいと団欒できる店──この理想とする姿は、開店して間もなく自然に実現されていった。
「若貴人気」で連日の大盛況
「力士」が開店した1974(昭和49)年は、高度成長期が終焉し、安定成長時代へと歩み始めた時期にあたる。そのなかで相撲界は、北の湖が当時の史上最年少で横綱となり、先輩横綱の輪島とともに「輪湖時代」へと突入する。角界一の人気を誇った貴ノ花も大関として翌1975年に2度の幕内優勝を実現する。1981年に輪島が引退すると、千代の富士が彗星のごとく登場し、一時代を築く。さらに、1990年代は「若貴人気」を背景として、相撲界には空前絶後の大ブームが到来する。
「商売としてはずっと順調にこられた。実家に借りた金はすぐに返せたしね。とくに『若貴人気』はもの凄かったよ。本当に夢のような盛り上がりをみせたからね」
「若貴人気」を背景として、大相撲の「満員御礼」は1989(平成元)年の九州場所終盤から連続666日(7年余)も続いた。1998年には史上初の兄弟横綱も誕生した。
こうしたなか、店内の至るところに飾られた相撲グッズが、「力士」の人気に拍車をかけることになる。相撲の図柄をあしらった風呂敷、歴代横綱一覧、新旧の番付表、大入り袋、現役(二子竜)時代や貴ノ花関との交流を物語る写真などがところ狭しと貼られている。トイレに行けば、「金星=美人」「とうすけ=ケチな人」など面白い大相撲用語が覚えられるようになっている。
「当時は相撲に興味がなかった人たちもみんな若貴に注目した。この店も、開店前から行列ができる日々が当たり前になったからね。若い女性ファンも少なくなかったよ」
その名残は、現在の店内にもみられる。カウンター前にある食材ケースには、若い女性ファンや、彼女たちと田名部さんが一緒に写ったプリクラが貼られている。なかには、女優やタレント、モデルなどの卵も少なくなかったという。
一方で、田名部さんの仕事一筋に努力を重ねる姿勢が、店の経営を盤石なものとした。バブル経済時代、多くの飲食店が二号店、三号店と商売を一気に拡大していくなか、田名部さんは店を拡げることをしなかった。
「正直に言えば、もう一軒店が欲しいと思ったこともあったけど、考えに考えた末に我慢することにした。成功できるという確信が持てなかったからね。結果としてやらないでおいてよかったよ。私の先輩でも、店を拡張して財をなくした人は少なくない。夜逃げしたり離婚したりするケースもざらだったからね」
田名部さんは、バブル崩壊時に店舗の家主が借金で夜逃げして、入居している建物が競売にかけられたため、共同で購入している。
「いまから20年くらい前のことだね。競売になったから安く買うことができた。家賃を払う必要がなくなったし、店子からの収入も定期的に入るようになった」
こうした幸運に恵まれたこともあってか、「力士」のメニューは二十数年以上にわたりずっと値段が据え置かれている。
「場所柄もあってできるだけ安くて美味しいものを、と頑張ってきた。ただね、ちょっときついから、来年10月の消費税アップ時には改定させてもらおうと思っている」
「あと10年は続けたい」
田名部さん夫妻が二人で切り盛りしてきた「力士」であったが、1990年代後半頃によし子さんが病に倒れる。突然の出来事だった。そして長い闘病の末、2000年に亡くなる。
「闘病中は大変だった。一人で店をやりながら看病しないといけないからね。疲れと睡眠不足で自分自身の体調も悪くなったし、精神的にもおかしくなった」
「力士」は長いあいだ、原則定休日を設けずに営業を続けてきた。せっかく楽しみに来てくれるお客様に申し訳ないから、という田名部さんの人柄によるものである。1年間で必ず休むのは大晦日と元旦だけ、他を含めても10日も休まない年がずっと続いていた。
毎朝9時に店に出て鶏ガラスープの出汁を取り始め、自転車で買い物して自宅(高円寺)へ帰って少しだけ休憩した後、13時頃に再び店に入って本格的な仕込みに取り掛かる。夜は24時閉店だが、お客様が楽しんでいるうちは店を閉めることがなかった。
「きつい毎日だったけど、これは二人でやっていたからこそ頑張れた。だから女房が逝った時は目の前が真っ暗になったよ。でも、二人の息子を育て上げる意味でも、頑張り続けなくちゃいけなかった」
よし子さんが亡くなった後、一時的にアルバイトをつかったこともあったが、うまくいかなかった。それにこりてからは一人で切り盛りすることに決めた。
その後も10年以上にわたって気丈に振る舞ってきた田名部さんであったが、昨年暮れから新年にかけて半月店を休むことになる。初めてのことだった。「頚椎症」と呼ばれる病で、突然、上肢や下肢にしびれや鈍痛が走った。両手を使った細かい作業ができにくくなり、両足の足先がしびれてきたりして、歩くことにも支障が生じた。
「手がしびれて物も持てず、歩くのもやっとだった。すぐに入院して手術することになった。いまでも半分治って、半分治ってない状態。自分で運動しながら回復に努めている」
わずか半月の休みを経て店は再開された。営業時間を22時30分までに短縮し、日祝日は定休日とした。
「なにくそ!負けるものか!と辛抱、我慢でこれまでやってきた。でも一方で、夢はすべて実現できたからね。いまはとくに欲はない。健康で長く店を続けることができればそれだけで十分だよ。健康でボケないでいれば、あと10年は続けられると思っている」
2週間前に来店した際、ビールの一気注ぎを期待したところ、寂しそうな表情で「いまはちょっと無理なんだよ」と言われたが、この日は以前と変わらず力強く瞬間芸を披露してもらえた。コクとキレが増した「力士」のビールは、まだまだ健在である。