選定者私物の本

案内文01

「作家の覚悟と鎮魂の想い――山崎豊子さんが亡くなって6年」
新潮社総務部長・加藤 新

選定者

『沈まぬ太陽』山崎豊子

山崎豊子さんが亡くなって6年。『白い巨塔』や『華麗なる一族』『二つの祖国』などのベストセラーで知られる社会派作家(ご本人はそう言われるのがあまりお好きではありませんでしたが)の執筆手法や素顔に関心を持つ読者はいまも多いでしょう。その作品は、その発表から30年以上経って、時代がいろいろと変化した現在も、くりかえし映画やドラマとして映像化されています。

私は週刊新潮に連載した『沈まぬ太陽』を8年にわたって担当させていただきました。数年に1作ペースで大作を生み出してきた先生ですが、75歳でこの作品を書き上げた頃から、原因不明の疼痛と体調不良に苦しまれ、それは亡くなるまで続きました。その意味では、お元気だった先生が書かれた最後の作品とも言えます。

1985年のジャンボ機墜落事故を描いたこの作品は、遺族が実名で登場するなど山崎作品の中でもかなりノンフィクション的要素が強い。航空会社に勤める主人公が組合活動を理由に海外左遷される「アフリカ篇」、帰国後、遺族のお世話係となる「御巣鷹篇」、新たな経営者に抜擢され組織の不正を追及する「会長室篇」の3部構成。“空の安全”というテーマで貫かれていますが、それぞれにヤマ場があるので、三つの独立した作品として読むことも出来ます。それだけに取材はハードで多方面に及びました。場面も日本国内だけでなく、パキスタン、イラン、ケニア、アメリカと変わりますが、当然ながら先生はすべてに足を運びました。

小説の原形(モデルという言い方も先生はお嫌いでした)となった航空会社は、最初こそ社長自ら「何でもご協力します」と愛想のよい顔を見せていましたが、やがてストーリーが自分たちに批判的な内容だと分かると、あの手この手で嫌がらせをしてきました。当時はどの飛行機にも乗客サービスで週刊誌が搭載されていましたが、そこから『週刊新潮』を外し、やがて雑誌広告も引き上げました。しかし、先生はこうした仕打ちに逆に発奮、「たかが作家一人など象の前の蟻に等しい」と言いながらも、いっそう精力的に取材を重ね、巨大な相手と本気で「刺し違える」覚悟でした。

何十人もの関係者をホテルの一室に缶詰にして、朝から晩まで話を聞きました。パイロット、整備士、管制官、事故調査官、多くの遺族、医療関係者……。その多くは、先生の取材に答えながら、本当に作品の登場人物のように怒り、悲しみ、涙を流しました。それ自体がまさに人間ドラマ、先生が小説の中で常に描こうとしていたものでした。1999年、全5巻で刊行されたこの作品は200万部(文庫を含めると600万部)を超えるベストセラーになりました。

刊行後ほどなく、先生は本の宣伝もかねてNHKの番組に出演し、収録が終わったその足で群馬県の上野村に向いました。事故で犠牲になった520人の墓標に無事刊行を報告するためです。担当者として付き添った私はこの頃、少しずつ先生の体調が悪くなっているのを感じていました。それでも先生は一歩ずつ、這うようにして山道を登り、慰霊碑のある尾根を臨む通称・見返り峠で地面に本を揃えて合掌された。その背中が震えていたのを覚えています。「今までこんなしんどい思いをした作品はなかった」。ポツリと漏らした先生の言葉も忘れられません。

あらすじ/『沈まぬ太陽』山崎豊子

1985年に起きた飛行機事故(日本航空123便墜落事故)を描いた長編小説。ある航空会社の労働組合委員長を務めた人物と、その周囲の人々の人間模様を通して、人の命にかかわる航空会社の社会倫理のあるべき姿が表現された。2009年に映画化、2016年にテレビドラマ化されている。

案内者プロフィール

加藤 新。1962年東京都生まれ。早稲田大学文学部卒業後、85年に新潮社入社。『週刊新潮』編集部記者、デスクとして「沈まぬ太陽」を連載開始から完結まで8年にわたって担当。山崎豊子氏をサポートし、御巣鷹山やボーイング社など、多くの取材にも同行した。出版部編集長、出版企画部部長などを経て現在は総務部長を務める。

沈まぬ太陽

書籍情報

『沈まぬ太陽』(1999年新潮社より上下巻として刊行)。
現在、新潮文庫から全5巻として刊行されている。