選定者私物の本

案内文01

「完璧な「タイミング」について。」コピーライター・松村聡子

選定者

『フラニーとゾーイー』サリンジャー

悩める思春期のバイブルといえば、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を思い浮かべる人は多いと思う。多分に漏れず私もその一人。だけど、それ以上に『フラニーとゾーイー』から私が受けた影響は大きい。特に前半の「フラニー」の部分は何度読み返したかわからないくらい。今回、自分の本を撮影すると聞き、この古ぼけた、千切れそうな文庫本(実際表紙は千切れてしまった)を見せるのはいささか気恥ずかしさもあった。

最近は、そう感じることはなくなったのだけど、物心ついた頃から「自分の居場所について」違和感を覚えていた。こんなことを書くと心配されそうだが、ずっとずっと幼い頃は「本当の家族は別にいて、今は仮の家族」と思っていたし、学校で友達と一緒にいても、本当には一緒にいない気がした。高校受験の時は、私を知っている人が誰もいない学校へ行きたいと思い、実際そうした。自分が属するコミュニティへの違和感が、いつもついて回った。

大人に、少しずつ近づくにつれ、周りへの違和感が、自分への違和感へと変化した。それは時に私を押しつぶし、抱えきれず溢れてしまうことがあった。疑問、怒り、不安──。そんな心の平穏を取り戻す術が「フラニー」だった。


フラニーは、シーモアを長男とするグラース家の末妹。子供の頃『これは神童』というクイズ番組に出ていて、7兄弟がみなその番組で秀才ぶりを発揮する。もちろんフラニーも、だ。この作中では名門女子大に通っている。

冒頭、ボーイフレンドがフラニーの到着を駅で待つシーンから、わしづかみで心を奪われる。まるで映像を見ているような、鮮明かつ繊細な描写で物語が始まっていく。

話は変わるが、私はアメリカのドラマが好きだ。それは幼い頃抱いた、海の向こうへの憧れからでもある。今みたいに気軽に海外ドラマなど見ることができない時代、「フラニー」はアメリカのリアルという点だけでも、すごく魅力的だった(時代は少し遡るし、本当にリアルかどうかはさておき)。自分と同世代のアメリカの女の子の気持ちや日常を、ドキドキしながら、憧れの気持ちで読んだ。

それ以上に私にとってこの本の大きな意味は、フラニーのような完璧な女の子であっても、内側からこみ上げる自意識や周りのエゴに苦しんでいた、という気づきがあったこと。ボーイフレンドの価値観や振る舞いに違和感を持ちつつも、そのモヤモヤした気持ちに蓋をして、取り繕っているという発見。フラニーだってそうなのだから、自分(みたいな凡人)がモヤモヤ生きたっていいんだと、心がとても軽くなった。


この原稿を書くにあたって久しぶりに「フラニー」を読み返してみた。だけどあの頃感じた、この本に救われるような感覚は正直、もうなかった。

今の私は、それなりに自分のことを許せているし、正しい場所にいる実感があるからかもしれない。あの頃の私よりも少しだけ力を抜いて、生きることができているからかもしれない。


本には、出会うべきタイミングがあると、私は思う。それは、言い換えれば心に響くかどうか。完璧なタイミングで、最良の1冊に出会えることは、幸せだと思う。

数年前、村上春樹氏もこの作品の翻訳を手がけている。きっと現代風のまた違った「フラニーとズーイ」が描かれていると思う。私も読んでみようかな。あの時とは違った発見が、あるかもしれないという期待を込めて。

あらすじ/『フラニーとゾーイー』J・D・サリンジャー著 野崎孝 訳

アメリカ東部に住む一家の末娘フラニーと、5歳上の俳優の兄ゾーイーのそれぞれの物語を1冊にまとめた作品。人間が持つエゴイズムに悩み、宗教書にすがって引きこもった美しい妹を、兄は才気とユーモアに富んだ言葉を持って救い出す。人気絶頂期に表舞台から姿を消した小説家サリンジャーの、『ライ麦畑でつかまえて』と並ぶ代表作。

案内者プロフィール

松村聡子。1975年埼玉生まれ埼玉育ち。20代でメーカーから転職し、編集→広告制作ディレクター→コピーライターに。現在フリーランスとして、学校系を中心にいろいろと。犬と6歳男子を育成中。

フラニーとゾーイー

書籍情報

『フラニーとゾーイー』(1968年新潮社から発刊)
1976年に新潮文庫として文庫化。
角川文庫、講談社文庫などから複数の訳で発刊された。
現在は新訳『フラニーとズーイ』(村上春樹訳)が新潮文庫から発売中。