案内文01
「誰だって、ときには世間が疎ましい」編集者・米澤敬
『さぶ』山本周五郎
十代だった頃に、この本に出会っていればよかった、としみじみ思う。その一方で、中途半端に屈折していた十代の自分が『さぶ』を読んだら、「ケッ」と一蹴していたかもしれないとも思う。何しろカフカやカミユに耽溺して、世の中なんて不条理で理不尽なものだと、わかったようなことを吹聴していたのだから、『さぶ』の結末は「きれいごと」にしか見えなかった可能性も十分にある。しかしこの「きれいごと」、そんなになまやさしい「きれいごと」ではなく、作者の山本周五郎は、「きれいごと」(つまりは作者の理想)を実現させるために、血と泥にまみれた文庫本400ページを超える長い物語を周到に紡ぎ出したのだ。
タイトルの「さぶ」は、表具屋の若い未熟な職人の名。のろまで風采も冴えない。一方、その友人の栄二は器用で男前で喧嘩も強く、先輩職人たちからも一目置かれている。物語は、そんな対照的な二人の互いに対する想いを象徴するエピソードで幕を開ける。そして以降は、タイトルを裏切るように話はあくまで栄二を中心に展開していく。表具職人……ふすまや屏風、ときには掛軸などの表装を手掛ける職人……として将来を嘱望された栄二が、ある日、身に覚えのない罪に落とされ、自分が信じていたものすべてに裏切られたとして、暴力沙汰を引き起こし、ついには石川島の人足寄場に収監されてしまうのである。
栄二は、さぶとの交流も恋人への想いも断ち、ただただ世間への復讐を胸に、人足寄場でもかたくなに他者とのコミュニケーションを拒み続ける。ちなみに人足寄場は、罪人や罪人予備軍を収容し、仕事を身につけさせる更正施設ではあるが、容易に想像できるように、その実態はかなり苛酷なものだった。それでも世間からはみ出した、あるいははじき出された人々にとっては、誰もが本音をさらけ出すだけ「世間よりはずいぶんまし」な場所であるようにも感じられる瞬間もあるのである。ぎりぎりの居場所であり、ささやかなユートピアにも思えなくもない。それでもやっぱり、世間のしがらみや「毒」は確実に染み込んではくる。もとより世間全体を敵視している栄二にとっては、そんなしがらみや毒もまた闘う相手になる。いきおい栄二の寄場体験は、苛酷な上にも苛酷なものとなっていく。
デュマの『モンテ・クリスト伯』(「巌窟王」)では、そんな隔離空間での体験を糧に、世間に戻った主人公が見事に復讐を遂げるということになり、読者は「カタルシス」を味わうのだが、山本周五郎はそれを許さない。今も昔も復讐は連鎖するのである。逆恨みなのかまっとうな恨みなのかなんて、当の本人だってわからないのである。だからこそ作者は、「きれいごと」をいかに「必然」にするかに筆を尽くす。まあ、そんな「きれいごと」に得心できるかどうかは、人それぞれであるし、気分次第でもあり、どう判断するかは、ともかく読んでいただくしかない。何より物語としての面白さは、格別なのだから。
要するに、栄二の心の成長物語だと言ってしまえばそれまでなのだが、当のタイトルになった「さぶ」の方は、まったくと言っていいほど成長していない。最初から最後まで鈍重な「さぶ」は「さぶ」のままなのである。結局、誰からも必要とされていないと思い込んでいた栄二は、「さぶ」という自分を必要としている人間がいることによって、はじめて成長できたのである。タイトルが「栄二」ではなく「さぶ」である所以である。
蛇足かもしれないが、この物語はミステリーでもある。どんでん返しというほどではないが、栄二を罪に落とした者の正体は、物語の最後の最後まで明かされない。その真相をどう受け止めるかも、この物語の大きな醍醐味である。
あらすじ/『さぶ』山本周五郎
江戸下町の表具店で働く「さぶ」と「栄二」。職人として順調に成長していく栄二が、突然、盗みの罪を着せられ、自暴自棄となった末に、人足寄場に流れ着く。自分を無実の罪に落とした人々への復讐を誓う栄二だが……。
案内者プロフィール
米澤敬。1955年1月5日(戸籍上は15日)、群馬県前橋市に生まれる。前橋で18年、その後6年間の札幌生活を経て、1979年に松岡正剛が主宰する編集塾「遊塾」に参加、そのまま工作舎スタッフとなる。当初は書店営業とデザイン、後に編集を担当し雑誌『遊』の制作にも携わる。世紀の変わり目あたりから工作舎編集長。
書籍情報
『さぶ』(1965年新潮社から発刊)
現在、新潮文庫、講談社文庫、時代小説文庫などとして発売中。