選定者私物の本

案内文01

「センチメンタル」編集者・鈴木朝子

選定者

『紙の動物園』ケン・リュウ

「あの猫を拾った習志野の家」

前に住んでいた家を、ときどきそう表現する。仕事ばかりしていた時期であまり家にいなかったので、家関係の記憶があまりないといえばないけれど、結婚してからふたりで6年も住んでいたのだから、思い出は猫のほかにいくらでもある。まして猫と一緒にいたのはほんのわずかな時間のことで、あの家の思い出が「猫を拾った」に集約されるのは不思議でもある。

猫と会ったのは、駅まで続く長い一本道だった。道の真ん中に佇んでいた小さなかたまりが少しずつ自分のほうに近づいてきて、至近距離で手を伸ばしたら飛び込んできた。両手に収まるサイズの子猫だった。アパートでは飼えなかったし、出勤時間でもあったけれど、とりあえずUターンした。歩いているうちに子猫はにゃあにゃあ鳴いて肩の上に乗ってきて、そこからかばんのなかにすとんと降りて、かばんのなかから丸い緑色の目で私を見上げていた。

出勤前の夫に見せたらメロメロになったのでしばらく遊んで「どうしようか」「誰かもらってくれないかな」……としばし迷ったあとに、アパートの近くにいた大家さんとその子どもたちに託して出かけてしまった。そのあとのことは聞いていない。優しい人たちだったから、悪いようにはなっていないはずだと思う。

時間にして30分に満たない出来事が、あの6年間の象徴になった。時にはあったはずの大変なこともやりきれなかったことも、子猫の手ざわりや声やまなざしと一緒に呼び起こされるおかげで、なにもかも可愛い思い出になった。

今、うちにはあの子猫と同じキジトラ柄の猫がいて、本人(?)に悪いのであまり言わないけれど、あの子猫のほうが少しだけ美人さんだった。

短編集『紙の動物園』表題作の登場人物は、中国の農村に生まれた母と、その母とアメリカ人の父のあいだに生まれた息子。息子は成長とともに、英語を上手く話すことができずアメリカの文化になじむことのできない母を疎ましく思うようになる。母の無念も、息子の後悔も、読者としてそのまま受けとめるにはあまりに痛く、切ない。その無念と後悔に寄り添うのは、母がかつて息子のために折ってくれた紙の虎。息子が「老虎」と呼ぶその虎が、母にとっても息子にとっても幸せだった時代の象徴としてふたりに寄り添う。

サイエンス・フィクション──SFと呼ばれる映画や文学作品は、ある設定を通して伝えるしかない切なさがあることを知らせてくれる。ありのままでは受けとめることも難しいほどのやりきれなさが、人が生きるうえで確かに存在することを、人が過去と現在を行き来したり、地球外生命体と友だちになったり、紙で折った虎や水牛やサメが命を吹き込まれるような設定を通して瑞々しく伝えてくれる。

あらすじ/『紙の動物園』ケン・リュウ 著 古沢嘉通 訳

SF界の注目作家とも言われるケン・リュウによる短編集。中国に生まれ、アメリカで育った自身の体験をモチーフにした作品をはじめ、東洋の文化に影響を受けた細やかな感性によって描かれた7つの作品によって構成されている。表題作は、中国の農村に育った母とアメリカ人の父のあいだに生まれた息子が亡き母を回想する物語。

案内者プロフィール

鈴木朝子。1977年千葉県生まれ。編集者。株式会社アピックス勤務。ふだんは企業・学校の広報媒体(コンセプトブック、ブランドブック、社史など)のライティング・編集に携わる。選書の仕事としては高校生に向けた「はじめの1冊×100」「将来をかんがえる10冊」など。当サイト主宰。

紙の動物園

書籍情報

『紙の動物園』(2015年早川書房より発刊)
2017年に文庫化(ハヤカワ文庫)。
単行本、文庫本ともに発売中。