案内文01
「ほんの少しでいいからこの世界を良くしろ」
小説家・桜井鈴茂
『きみを夢みて』スティーヴ・エリクソン
選びあぐねている俺の頭の中に十代の男子が忽然と出現する。わりとイケメン。背丈は俺よりわずかに高く、相手を見下してるような、それでいて何かを乞うているような目つき。高校二年くらいか。こいつ誰?と思うが早いか、男子は「父さん」と呼びかけてきた。慌てて周囲を見渡す。誰もいない。狼狽する俺に気付いていないのか男子は続ける、「本を紹介してよ」。俺は「ん?」と返すのが精一杯だ。「国語の先生に薦められたのを立て続けに読んでるんだけど、どれもイマイチで」「……どんな本読んでるんだ?」そう尋ねながら徐々に状況が掴めてくる。どうやら俺とこいつ……息子は月に一度会う取り決めになっているらしい。つまり、息子の母親とは離婚したってこと。息子は書名を三冊あげる。近代日本文学の名作と戦後文学の名作と比較的最近の芥川賞作品。まあ、妥当。あるいは、無難。「一冊、とっておきのを教えてよ」「一冊?」「うん、一冊。それがつまんなかったら、オレ、本なんか読むのやめる」「おいおい、極端なこと言うなよ」「そもそもさ、本を読み続けると何か良いことあるの?」息子にそう問われて俺は返答に窮する。2019年の今、高校生からのそんな問いにズバリと答えられる人はいるんだろうか? ここでいう「本」は、むろん文学のことだ。
ともあれ、息子と別れて部屋に戻り俺は考えた……まあ、息子が出現する前から考えていたのだが、今やそこに切実さが加わった。その一冊が息子の未来を左右するかもしれない。少なくとも俺を見る目つきは変わるだろう。数年前の引越し以来カオスと化している本棚を漁った。いや、本当は難しく考える必要なんかない。自分が高校生の時に夢中になった本を薦めればいい。それができれば俺だって幸せだ。しかし悲しいことに、今の俺はその本が好きじゃない。何年か前に読み直してみたが、鼻白んでしまった。ならば……サリンジャーのライ麦畑? ちょっとありきたりな気がする。くそったれブコウスキーは高校生にはさすがに早すぎるだろう。カポーティのティファニー? ミラーの北回帰線? ウエルベックのある島の可能性? 村上龍のテニスボーイの憂鬱? グレート・ギャツビー? ボラーニョ?
丸三日かかってようやくスティーヴ・エリクソンの『きみを夢みて』を選び出し、ウェブ書店で購入して息子に届くよう手配した。翌々日の夜に息子からラインが届いた。「ありがと」のスタンプの後に「なんかメッセージはないの?」とある。「いいから読んでみろって」「ヒントくらい教えてよ。どうしてこの本?」「要するに、近眼になってほしくないんだよな」「オレ、すでに近眼だけど?」「頭の話……ここにいながらもここではない場所へ思いを馳せられる人間になってほしいんだ」「ふーん」「そして、ほんの少しでいいからこの世界を良くしろ」「はあ? オレが?」「そう、お前が」「どうやって?」「そんなことは俺にもわからん」「この本にはそういうことが書いてあるの?」「どの素晴らしい本にも少しは書いてあるはずだけど、特にその本には書いてある」「わかった。来月会った時に感想伝えるね」
「オーケー、じゃあな」と返すと息子は俺の頭の中でフェイドアウトしていき、やがて姿を消した。
あらすじ/『きみを夢みて』スティーヴ・エリクソン 著 越川芳明 訳
ロサンゼルスで暮らす一家––––作家と写真家の夫婦と12歳の息子、エチオピアから養子に迎えた4歳の黒人少女。経済的に問題を抱えた家族は、あるきっかけから養女シバの生みの親探しの旅に出る。この家族の物語をベースに、いくつものストーリーが重なる。現代アメリカの社会を背景に、歴史・政治・音楽・家族……などさまざまなテーマを内包しながら登場人物それぞれに感情が行き違うさまが丁寧に描かれた作品。
案内者プロフィール
桜井鈴茂(さくらい・すずも)・小説家。1968年札幌市近郊生まれ。バイク便ライダー、郵便配達員、スナックのボーイ、小料理屋店長、ベンチャービジネス専攻の大学院生、水道検針員など様々な履歴を経て、2002年『アレルヤ』で第13回朝日新人文学賞を受賞。他の著書に『終わりまであとどれくらいだろう』『女たち』『冬の旅』『どうしてこんなところに』『へんてこなこの場所から』『できそこないの世界でおれたちは』。
市民ハーフマラソンランナー、ロックDJとしての顔も持つ。家族は妻1人に猫2匹。旅好き、酒好き、猫好き、レコード好き。
〈編集部追記〉
桜井鈴茂さんの作品
桜が満開の東京で、男女6人の痛みと希望が交差する『終わりまであとどれくらいだろう』、かつて衝撃的な事件が起きた町でそれぞれの日常を生きる人々を浸食するものは……『冬の旅』、罪を犯して逃亡生活を続ける主人公の旅と心模様を描いた『どうしてこんなところに』、社会にうまく適合できないでいる人々を描いた9つの物語で構成された短編集『へんてこなこの場所から』。痛みを抱いたまま歩き続けるしかない人々を「赦す」ような作品群。
『終わりまであとどれくらいだろう』(2005年双葉社/絶版となったのち、2018年に電子書籍として復刊)
『冬の旅』(2011年河出書房新社/2019年現在は絶版)
『どうしてこんなところに』(2014年双葉社)
『へんてこなこの場所から』(2015年文遊社)
書籍情報
『きみを夢みて』(2015年筑摩書房から発刊)
ちくま文庫として発売中。