選定者私物の本

案内文01

「自分に合った表現方法」馬場紘花・システムエンジニア

選定者

『たとへば君』河野裕子 永田和宏

『たとへば君』は、河野裕子と永田和宏という歌人夫婦の相聞歌と、互いのエッセイが収録された本だ。新聞で永田さんの歌を目にし、気になったので図書館で借りてみた。私はそれまで詩の世界にいたが、この本を読んで短歌に傾倒し始めた。大学最後の冬のことだった。

10代の頃、私は学校に馴染めなかった。スクールカースト制度の敷かれた教室では、生存競争に勝ち続けるために、自分の意見や感情を殺さなければならなかった。家の雰囲気も良くなかった。母は更年期障害と鬱病を患い、父は帰宅しない日が増え、私は摂食障害になった。学校でも家でも人間関係に希望が持てず、感情表現の方法が分からなくなっていた。


『たとへば君』を読んだとき、こんなにもお互いを思い合う人間関係が存在するのかと、泣きたくなった。2人が出会ってから河野さんが亡くなるまでの40年間、相手を自分が把握しきれない感情を持った他者として接する姿勢、相手を断罪するのではなく自分の感情のみを省みる姿勢、相手と自分の違いを批判するのではなく面白がり慈しむ姿勢が伝わってきた。


母を知らぬ汝れのかなしみ夕日照るはるかな水辺に鶴は遊ぶを河野裕子

あるいは泣いているのかもしれぬ向こうむきにいつまでも鍋を洗いつづけて 永田和宏


河野さんが乳癌を発病してからの2人は、不安感や無力感に苛まれる。それらの感情は、「悲しい」「虚しい」といった単純化された言葉のレベルで表現されるのではなく、読み手を特定の状況に導くことで直接的に呼び起こされる。気持ちを殺してきた私は、感情をそのように表現し伝達できる短歌という詩型に、魅力を感じた。


大泣きをしてゐるところへ帰りきてあなたは黙つて背を撫でくるる 河野裕子

ヤドリギは夕暮れ影を深くする幸せすぎたと泣く人がゐる永田和宏


短歌を始めて5年になる。今は信頼できる友人や安心できるパートナーと巡り逢い、両親との関係も改善された。精神的にも肉体的にも傷だらけだった10代の頃、短歌という表現方法──詩でも音楽でも絵画でも、自分に合った表現方法──を見つけられていたら、少しは楽だったのかもしれないと思う。

あらすじ/『たとへば君──四十年の恋歌』河野裕子・永田和宏 著

ふたりのあいだに起きたさまざまなエピソードを歌にして表現してきた歌人の夫婦に、妻の乳がん発覚という思いがけない出来事が起きる。がんを公表し、闘病の過程もすべて歌にしていくことを決めた妻と、その日々を支える夫。出会いから妻の死までの40年間に書かれた歌と、折々のエッセイで綴れられた夫婦の軌跡。

案内者プロフィール

馬場紘花。1991年生。システムエンジニア。株式会社アピックス元アルバイト。短歌結社「未来」所属。

たとへば君──四十年の恋歌

書籍情報

『たとへば君──四十年の恋歌』(2011年文藝春秋より発刊)。
現在、文春文庫から発売中。