選定者私物の本

案内文01

「追慕の記」編集者・鈴木朝子

選定者

『最後の冒険家』石川直樹

ところでメールのなかでぼくのことを「◯◯様」と呼ぶのを止めてもらえませんか?

と返信をいただいた。堅苦しいのが嫌だったのだろうし、そういう仲でもないだろうという気持ちでいてくださったのだろうとも思った。相手は仕事の発注元で、個人としてはいつも慕うばかりの20も上の年長者。「いやそう言われましても」と思いながらも従ってみた。「◯◯さん」と呼びかけてみたら、メールで伝えたいことがどんどん増える。恩恵を受けたのはこちらばかりとは思うけれど、互いに楽しいやり取りができることがくすぐったい。そして、すべての年上の知り合いに言えることとして、順番に行けばいつか見送らなくてはいけないのか、と不意に思う。

年の離れた人とつきあうことを通して、人は自分の役割をふだん以上に意識する気がする。例えば若者の時代に、ずっと年上の人と知り合って、仕事でも遊びでも、何か一緒に取り組んだとしたら、若い自分にこそできることを考える。そして、年を重ねないとできないことが何かを思い知る。そうやって互いに敬意を払い合い、必要とし合うことで、人と人は友だちになれる──んじゃないかなと思う。

『最後の冒険家』は、気球に乗って長距離飛行や山越えに挑み続けた神田道夫さんのことを書いたノンフィクションで、神田さんは2008年に消息を絶った。書き手の石川直樹さんは、神田さんが2004年にチャレンジした太平洋横断に同行した。はじめて出会ったとき、神田さんは54歳、石川さんは26歳だった。

熱気球のこと、冒険のこと、とくに二人で挑んだ太平洋横断のことが、正確に、詳細に、丁寧に描かれる。読んでいる最中はただわくわくして、読後に心を揺さぶってきたのは、石川さんから神田さんへの圧倒的な敬意だった。初対面の日に神田さんが何を話したか、そのときどんな様子だったか、冒険者として神田さんの長所はどこで弱点は何か。感情をつとめて抑えた文章に、かえって追慕の情がにじむ。石川さんが、正確に、詳細に、丁寧に描きたかったのは、神田道夫さんという人が生きた証なのだと思う。


気球の技術を一から教えてもらった弟子として、そして生死を共にした年若い一人の友人として。(「はじめに」より)


人が人を描いた──伝えることが自分の役割と認識して書かれた作品のなかで、これほどひたむきで誠実なものをほかに知らない。

あらすじ/『最後の冒険家』石川直樹

埼玉県の町役場に勤めながら熱気球による冒険に挑戦した神田道夫氏を描いたノンフィクション。神田氏は2008年に二度目の太平洋横断に挑み、北太平洋上空で消息を絶ち、その後捜索は打ち切られた。この本は、一度目の太平洋横断に同行(途中で断念)した石川直樹氏によって書かれたもの。第6回開高健ノンフィクション賞を受賞。

案内者プロフィール

鈴木朝子。1977年千葉県生まれ。編集者。株式会社アピックス勤務。ふだんは企業・学校の広報媒体(コンセプトブック、ブランドブック、社史など)のライティング・編集に携わる。選書の仕事としては高校生に向けた「はじめの1冊×100」「将来をかんがえる10冊」など。当サイト主宰。

最後の冒険家

書籍情報

『最後の冒険家』(2008年集英社から発刊)。
集英社文庫として発売中。