選定者私物の本

案内文01

「過去と現在をつなぐ旅へ」
美術家・磯﨑えり奈

選定者

『チベットの七年』ハインリヒ・ハラー

たった一冊の本が人生を大きく変えることはない、と私は思う。だけれども、何かがきっかけとなりさらに何個も偶然が重なることで、ある日突然変わることはある。そのきっかけや偶然の中に本があって、ひとつの要素として影響することもあるだろう。

ずっと前から旅に関する本が好きだ。最近は本というと、必要に迫られて知識と答えを求めて読むことが多くなったが、紹介する「チベットの七年」は私が大学生だったころに夢中になって読んだ本だ。

大学2年生から3年間、私は地元の公民館で週1回アルバイトをしていた。そこは同じ施設内に図書館もあり、仕事が暇な時に本を借りて読んでいた。館内は電気を節約していたため少し薄暗く、時々しか人が通らない閉鎖的な空間の中で、私の楽しみはいろいろな人が書いた旅に関する本を読むことであった。旅の仕方から、見たことのない景色、お店、雑貨、食べ物、歴史と文化をこの時期に私は学んだ。旅に関する本には学校で学ぶこととは違う世界が詰まっていた。

なぜ、旅の本をよく選んで読んでいたのか。さかのぼれば、小学生のころ楽しみにしていたテレビ番組はグレートジャーニーであったし、テレビや映画で見る家々や街並みが本当にあるのか自分の目で見てみたいと思い、高校1年生の夏にアメリカへホームステイに行った。理由はよくわからないが、とにかく小さなころから未知なる世界に興味があったらしい。ホームステイで行ってみないと見ることができない景色と、行ってみないとわからないことを経験したことで、さらに様々な国や文化への興味がわいたのだろうと思う。その後、美術が好きな私は大学へ進学し、日常や旅を通して見た景色や出来事をもとに作品を作り続けている。

さて本の話に戻る。唐突だが、本は歴史をさかのぼることができるタイムマシンだ。著者が見たかつての景色を私も読むことを通して見ることができるからだ。「チベットの7年」の中の旅の始まりは第2次世界大戦のころである。著者であるオーストリア人のハラーはインドで捕虜となったが、脱走し、チベットに向かう。そしてかつては禁断の都であったチベットの首都ラサへ逃れ、ダライ・ラマ14世と出会い交友する。美しいチベットの景色、バター茶という飲んだことのない味への興味、中国が迫ってくる中で亡命するダライ・ラマのこと、かつてのチベットから現在のチベットへの変化をこの本が教えてくれた。この本を読んで想像したかつてのチベットは、過酷ながらも素晴らしい景色と色鮮やかな寺院、独特な生活文化があり、温かい人々がいる国という印象だ。本を読みながら私は、著者が見た景色を想像力を膨らませて頭の中だけで見るのである。その景色はそれはもう美しい。

大学4年生の夏休みにバックパックを背負ってアジアに旅に出た。本が先か、旅が先かはわからない。

ぜひ今はもうないであろう素晴らしい景色を見に「チベットの七年」で心の旅に出てほしい。しかし、実際に旅に出て自分の目と感覚でしか感じられないことがある。かつて高校生、大学生だった私は今も見たことのない景色を見に行ってみたいとまだまだ夢を見ている。ちなみに、この本から見たチベットへの憧れが強すぎてか、いまだにチベットには行っていない。

作品を作りながら、美術にかかわって生きていきたいと思い、現在まで突っ走っている。私の仕事はほとんどすべてにおいて一人で考え、最終的に一人で判断しなければならず、孤独であるとも思う。世間一般から見れば気楽に霞を食べて生きているように見えるかもしれないが、例えると、泥沼の底を必死に泳ぎながら、時々水面に顔を出して空を見上げ方向を確認し、時々誰かに出会ったり、一緒に泳いだりして、先の見えない水中を進んでいるような感じだ。だからか、今はノンフィクションの旅行記を読むと、まるで仲間を見つけたように感じることがある。彼らも孤独な中で、よく考えればくだらないとことに悩み、どうしようもないジレンマを目のあたりにしながら、何度もハプニングを乗り越え旅をする様が、時間も場所も飛び越えてなんだか身近に感じてしまい、妙に安心してしまうのだ。

あらすじ/『チベットの七年』ハインリヒ・ハラー

ドイツのヒマラヤ遠征に参加した登山家は、第二次世界大戦中勃発によってインドに抑留され、そこからチベットへの脱走を企てる。チベット・ラサに到着し、7年間をその地で過ごした。脱出までの苦難、チベットで幼いダライ・ラマの温かい交流、彼の個人教師を務めた日々。山岳紀行文学の金字塔とも言われる作品で、1997年にジャン=ジャック・アノー監督、ブラッド・ピット主演によって映画化された。

案内者プロフィール

磯﨑えり奈。1979年千葉県生まれ。美術家。美術教育研究者。大学の教員であり作家でもある。想像と現実の間を行き来するようなかたちをつくりたいと思い制作している。海外旅行では必ず市場か蚤の市に行く。いつか海外に長期滞在したいと思っている。山登りは苦手だけれどキャンプは好き。

チベットの七年

書籍情報

『チベットの七年 ダライ・ラマの宮廷に仕えて』(白水社から1997年に新装復刊版として発刊)。
1952年に原作発表、1955年に『チベットの七年』として新潮社から発刊、のちに白水社から復刊された。映画化に合わせて『セブンイヤーズ・イン・チベット チベットの七年』に改題されて角川文庫から発刊。2018年現在いずれも絶版。古書店、Amazonマーケットプレイスなどにて購入可。