案内文01
「本棚のピース」編集者・鈴木朝子
『月と六ペンス』サマセット・モーム
好きな読書が仕事の一部になって、良いことも微妙なこともある。基本的に自分が日頃から素敵だなと思っている人に声をかけて「おすすめの本を教えてください」と頼んでいるわけだから、素敵な本を知る機会に恵まれる。書いてもらった紹介文を最初に読むのも役得だし、声をかけた誰かとのコラボレーションも嬉しい。
一方で、本を読んでいる時はいつも紹介文を書くことを考えるようになった。だから読書が単にリラックスの時間であることは少ない。そもそもいろいろなことを考えながらページをめくるのが読書だからまぁいいとして、影響があったのは買い方だった。街の本屋さんが閉店していくのを嘆いているのに、とにかく次から次へと買う必要があるので、Amazonに頼ることが増えた。パソコンの画面で目当ての本を検索することをくりかえしているうちに、中学生や高校生時代の本の買い方を思い出した。
通学経路にある書店で、読みたい本を探してはお小遣いで買った。買う本が決まっていることはほとんどなくて、棚をながめて読みたいものを選んだ。自分の本棚に本が一冊ずつ増えていくことが、自分を形成してくれる実感があった。
あの頃みたいに本を買いたいなと思ったのが先月のことだった。読みかけの本を忘れて出かけてしまい、移動時間を使うほど急ぎの仕事もなかった。それで駅の本屋さんに入った。買ったのはモームの『月と六ペンス』だった。読み継がれている名作を読んでいきたいと思っていたところだったから、新潮文庫の海外文学の棚を見てこれを選んだ。
安定した仕事と家庭に支えられた穏やかな生活を捨て、絵を描くことに人生をかけた男・ストリックランドの物語。語り手である「私」は、彼の奥さんから懇願されて彼を連れ戻すためにパリまで出向き、その不義理を責めて諭すけれど、夢を追う50過ぎの友人を前に結局は丸め込まれる。そして彼に振り回されることに憤慨しながら、その魅力に巻き込まれていく。芸術に人生をかけた男の人生をかけた骨太で壮大な物語であり、語り手と主人公が交わす会話や心の交流の一つひとつが人間というものの愛しさを伝えてくる。
本というものをただ楽しむことにちょっと飢えていた自分にとって、『月と六ペンス』はほとんど運とタイミングがもたらしてくれた奇跡だった。この本を読む前後のことを私はずっと忘れないと思うし、そういうことも含めて読書はやっぱり楽しい。そして結局のところこの本のことを書かずにいられずにこういうことになったのでしたとさ。
あらすじ/『月と六ペンス』サマセット・モーム
絵を描くためにそれまでの人生を投げ打ち、絵に没頭する日々のなかで生み出した作品によって死後に名声を得た人物の生涯を描いた作品。主人公・ストリックランドは、人物の細部は異なるものの画家のポール・ゴーギャンをモデルにしたと言われている。
案内者プロフィール
鈴木朝子。1977年千葉県生まれ。編集者。株式会社アピックス勤務。ふだんは企業・学校の広報媒体(コンセプトブック、ブランドブック、社史など)のライティング・編集に携わる。選書の仕事としては高校生に向けた「はじめの1冊×100」「将来をかんがえる10冊」など。当サイト主宰。
書籍情報
『月と六ペンス』(最初の日本語訳は1940年に発刊)。
現在、新潮文庫(訳・金原瑞人/2014年発刊)より発売中。
複数の訳で同時刊行されており、角川文庫、岩波文庫、光文社古典新訳文庫なども。