選定者私物の本

案内文01

「垂直旅行へようこそ」 主婦/パートタイマー・岡田真希子

選定者

『凍』沢木耕太郎

とんでもなく面白い冒険譚に出合ってね、それがこの本。Aさんもきっと好きだから、読んでみて。

ひと昔前、会う人会う人に贈っていた本が文庫版で出たての『凍』でした。次に会う友人のために常に2、3冊手元においていたといえば、どれほど感銘をうけたか想像できるでしょうか。今日は、若いあなたにもこの本をお薦めしたいと思います。


ネパールとチベットの国境地帯、いわゆるヒマラヤにギャチュンカンという山があるのをご存知ですか。2002年、当時世界的なクライマーの間でもほぼ無名だったこの高峰の巨壁にたった二人で挑んだ日本人がいました。一人が山野井泰史さん、そしてもう一人が泰史さんの妻 妙子さん。

酸素ボンベをつけず、ぎりぎりまで荷物を減らし、難しいルートを一気に登って降りなければ命はない、そんな極限の闘いが主に泰史さんの視点から描かれます。ギャチュンカンを登ると決めたいきさつから幕が上がり、夫妻の遭難を予感させるようなエピソードを挟みながらのスリリングな展開。こんな、物語よりも面白いノンフィクションがあったのか。息をするのも忘れそうなくらい『凍』に夢中になりました。

とはいえ物語の原型が―There and Back Again行きて帰る―だとすれば、『凍』もまたギャチュンカンの山に挑んで帰ってきた者の成長物語としての一面を持ちます。そして、私が友人に薦めていたのはその物語性のほうでした。特に第十章と終章では後日譚として過酷なアタックで失ったものと手に入れていたものが明らかになるのですが、苦難を越えて訪れるこのくだりには山頂から遥かに見渡す景色のような力がありました。現代はインターネットでどんな情報も手に入る時代ですが、どうか最後のあとがきまで一文字ずつ辿ってこの山行の結末を見届けてください。


「存在すべてをかけて山と対峙する登山家の中心に一本何ものも揺るがしえない太い軸が通っている。縦にまっすぐ伸びたその軸こそ彼らが生涯かけて登っていくものなのだろう。」(私の読書ノートより)

何気なく書きつけたメモは、やがて「自分はどうだろう。何事によらずこれが好きだ、このために生きると言えるものがあるか」という疑問になり、ひまを見つけては腹の底に降りていって自分自身と対話するきっかけをつくってくれました。その後、ひとり旅を経て十年近く勤めた金融機関を辞められたのも、介護や育児やパートの仕事やすべての「今この時」を自分で選んだ道として受けとめられるのも、『凍』があったお陰と言ったら言い過ぎでしょうか。


さあ、心の準備はできましたか。それではギャチュンカン北壁の旅に行ってらっしゃい、お気をつけて。

あらすじ/『凍』沢木耕太郎 2008年

登山家・山野井泰史が、同じく登山家である妻の山野井妙子とともにチベット奥地・ヒマラヤのギャチュンカン北東壁に挑む登山行。過酷な状況下のビバーク、重度の凍傷、襲いかかる雪崩。その壮絶な挑戦を描いたノンフィクション。かつて自身の旅を記した『深夜特急』が若いバックパッカーたちのバイブルとなった沢木耕太郎の、新たな代表作とも言える作品でもある。

案内者プロフィール

岡田真希子。1977年生、歯科医院勤務。手仕事少々。糸と布、種と花、土と器。本のあるところ、馬のいるところ、海の見える台所。『凍』の世界をも少しさまよいたい方『神々の山嶺』谷口ジロー/夢枕獏へto go! 漫画ですけども。

凍

書籍情報

『凍』(2008年11月発刊)
現在、新潮文庫から発売中。