選定者私物の本

案内文01

「悲しみに届く想像力」 編集者・鈴木朝子

選定者

『ムーンライト・シャドウ』吉本ばなな

『ムーンライト・シャドウ』を初めて読んだ時、まだ誰のことも亡くしていなかった。  幼い恋の終わりや、友だちと離ればなれになる経験はあったと思うけれど、「大切な誰かが手を伸ばしても届かないところに行ってしまう」ことの痛みや絶望を知らなかった。もう故人の体に触ることができないという現実がどれほど残酷かということも、残された人が自分の人生をまた生きていくことがどれほど困難かということも。


「キミと等は死ぬほど仲が良かったんだから、悲しいのは当たり前でしょ」
 「確かにワタシはまだ若いですし、セーラー服を着ていないと泣きそうなくらい頼りにならないですけど、困った時は人類皆きょうだいでしょ」


兄と恋人を交通事故で同時に亡くした「柊(ひいらぎ)」という少年が、亡き兄の恋人だった主人公に告げる。端正な容姿の心優しく変わりもののこの少年は、恋人の形見のセーラー服を着て高校に通う。そんな極端なことをしなくては毎日をやり過ごすこともできない悲しみが存在することもまた、私は全然知らなかった。

『ムーンライト・シャドウ』を読んだからといって、そのあと経験した幾つかの別れに耐えられたわけではない。死も別れも悲しみも極めて個人的なもので、他の誰かのそれに重ねたからと言って重みは減らないし、これから訪れる別れを迎え撃つ力がつくこともない。ただこの本から、自分の喪失感をやり過ごす方法ではなく、誰かの喪失感を想像しようとする気持ちを教わった。

小学校の頃に仲の良かった友達が亡くなって、その葬儀に参列した。卒業で離れてからも手紙のやり取りをしていて、入退院を繰り返していたことも知っていたけれど、命にかかわる病状とは思いもしなかった。

教会に向かう道のりで、ずっと考えていたのはRちゃんのことだった。Rちゃんは友達の自慢の妹で、ふたりは仲の良い姉妹だった。小学校卒業からもう何年も経つのに、参列した私や周りの友人たちのことをRちゃんは憶えてくれていて、献花のあとにご家族の前を通る私たちにRちゃんは深々と頭を下げた。遺影を見てもぼんやりしていた友達の死が、初めて真実味を帯びた。妹思いだった友達はどれほど心残りで、姉思いだったRちゃんはどれほどの喪失感の中にいるのだろうと思った。その喪失感の強さと深さを分かりたいと思った。分かったからどうなるものでもないと知りつつも、友達の無念に届き、Rちゃんの悲しみに届きたいと思った。自分が身内を亡くした時にはことさら思い出すことのなかった『ムーンライト・シャドウ』のことを、その時ひさしぶりに思い出していた。

あらすじ/『ムーンライト・シャドウ』吉本ばなな 福武書店 1998年

高校を卒業したばかりの主人公・さつきは、交通事故で恋人を失う。恋人の弟もその事故で彼女を亡くした。耐え難い喪失感のなかにあったさつきと柊は、その地で起きる「七夕現象」でそれぞれ愛しい人の幻に出会う。人が絶望の淵から這い上がるさまを描いた再生の物語。

案内者プロフィール

鈴木朝子。1977年千葉県生まれ。編集者。株式会社アピックス勤務。ふだんは企業・学校の広報媒体(コンセプトブック、ブランドブック、周年記念誌など)のライティングと編集に携わる。選書の仕事としては高校生に向けた「はじめの1冊×100」「将来を考える10冊」など。

書籍情報

『キッチン』(「1988年1月発刊。3作目にムーンライト・シャドウ」を収録) 現在、角川文庫から販売。
角川文庫 1998年発刊
日英バイリンガル版『ムーンライト・シャドウ』が2003年に朝日出版社から発刊。