案内文01
「今日の僕はこの本を選んだ」株式会社鷗来堂代表/かもめブックス店主・栁下恭平
『夜中に犬に起こった奇妙な事件』マーク・ハッドン
「あなたにとって特別な一冊を教えてください」と聞かれたら、今日の僕は『夜中に犬に起こった奇妙な事件』マーク・ハッドン著(早川書房刊)という小さなミステリを、かなり迷った末に選ぶと思う。
この本の主人公は、数学の才能を持つ自閉症の男の子で、タイトルの通り「夜中に犬に起こった奇妙な事件」を解決しようと奔走する。……のだけれど、彼には彼の世界があって、彼を取り巻く外の世界からは少しずつズレている。かわいそうに、彼は世界との摩擦に傷つきながら、それでも自分の正義を信じて前に進んでいく、というお話。読みやすくて、しばらくすると、また読みたくなる魅力のある本だ。
数年前、僕は僕の仕事にとって大きな決断をする必要があって、それが最近実を結んできた。その選択をしたときの孤独な感じと、何かを達成したときの晴れ晴れとした感じが、この本の主人公の気持ちにとても似ている気がする。だから、そこにとても共感して、とても特別だと思うので、今日の僕はこの本を選んだ。
このように「あなたにとって特別な一冊を教えてください」と誰かに聞かれたとき、僕はいつもいつも違う本を選んでいるような気がする。なぜかというと、その質問をされた日、まさにその日に僕が一番知りたいことや、強く考えていることによって、「特別な本」に対してバイアスがかかっていくからだと思う。
それはたとえば「フェミニズムとはなにか?」「才能とはなにか?」「モテるとはなにか?」「勉強(学びとその機会)とはなにか?」「小麦粉の人類史について」「宗教の地政学について」「数理学者の評伝」「モテるとはなにか?」「働くということについて」「『利己的な遺伝子』などの生物学について知りたい」「お金(そして経済)とはなにか?」「なぜ僕はモテないのか?」等々、その時、自分が気になっていることに、僕の知的興奮が引き寄せられるからだ。それらの本は「どれも特別だから」なんて言い訳をするつもりはないけれど、自分がアップデートされていくから、特別な本も変わっていくのだと思う。
案外「特別な本を一冊持つこと」と同じくらい「自分にとって特別な本が変わっていくこと」は大事なんじゃないかなって、僕は思っている。
あらすじ/『夜中に犬に起こった奇妙な事件』マーク・ハッドン 著 小尾芙佐 訳
発達障がいを抱える少年クリストファーは、近所の飼い犬を襲った悲劇を解決するため、探偵となって犯人探しに動く。そしてその過程を「ミステリー小説」として綴る。そこで知った衝撃の事実を胸に少年は、亡くなったはずの母親探しの旅に出る。英ガーディアン賞など多数の文学賞を受賞し、全世界で舞台化された名作。
案内者プロフィール
栁下恭平。1976年生まれ。いろいろあって、29歳で書籍校閲専門の「鷗来堂」を創立する。 校正講座、書店「かもめブックス」、日本中に本屋を増やすための事業「EJS」 などの事業も展開している。
書籍情報
『夜中に犬に起こった奇妙な事件』(2003年早川書房から発刊)。
現在、ハヤカワepi文庫として発売中。